フランス絶対主義の背景
フランスの絶対王政(絶対主義)は15世紀に形成され始めました。当時のフランスは、各地域がそれぞれ異なる伝統・特権・法制度を持つ寄せ集めのような国家でした。
スペインが全盛期を迎えていた頃、フランスはカトリック派とユグノー(プロテスタント)による宗教戦争に約30年間苦しみ、国は無政府状態に陥っていました。フランス王権が本格的に中央集権化へ向かうのは、百年戦争の後です。イングランド軍の侵攻とアジャンクールの戦いでの貴族側の敗北により、貴族たちは威信を失いました。王権はこれを好機として、影響力と権力の拡大を進めていきます。それまでフランス国王の支配力は、カペー家の直轄領であるイル・ド・フランス(パリ周辺)に限られていたのです。
スペインの衰退が始まると同時に、フランス王権は成長を続け、やがてヨーロッパ第一の強国へと発展します。この隆盛はアンリ4世の治世に始まり、ルイ13世、ルイ14世へと受け継がれました。その後、ルイ15世・ルイ16世の時代に衰退へ向かい、ルイ16世はフランス革命でギロチン台に送られることとなります。
ルイ11世――王権強化の礎を築く
優れた君主ルイ11世は、困難な状況の中で即位しました。当時、封建領主たちはしばしば王よりも強力だったからです。ブルゴーニュ公シャルル(突進公)は王権に反抗する貴族運動の先頭に立ちました。しかしルイ11世は卓越した手腕で貴族たちをペロンヌに集め、王権強化の必要性を納得させることに成功します(在位1461〜1483年)。
パリ包囲戦でシャルルを破ると、王は諸侯を屈服させ、貢納を義務づけ、王領を拡大しました。ルイ11世は「フランス国家の真の建設者」と評されるのです。
アンリ4世の治世
アンリ4世は並外れた統治能力と、率直で庶民的な気質を兼ね備えた人物でした。「日曜日に農民の鍋に鶏が一羽乗るようになったら、我が国は幸せだ」という言葉はよく知られています。その治世(在位1589〜1610年)の主な業績は以下の通りです。
- ナントの勅令(1598年)――史上初めて信教の自由を認めた貴重な文書で、カトリック派とプロテスタント双方に配慮した内容でした。
- 農業と産業の振興――農民の友として深く愛されたこの王は、パリに「ゴブラン織物工房」を創設させました。そこで織られたタペストリーは世界的な名声を得ています。
- 財政政策――有能な大臣シュリーの協力を得て、フランスが抱えていた対外債務4,700万リーブルを返済しました。
- 欧州連合構想(「大計画」)――シュリーが提案した、将来の戦争を防ぐためのヨーロッパ諸国連邦構想です。この構想は消えることなく、1930年にはフランスの政治家アリスティード・ブリアンが国際連盟に同様の連邦案を提唱しました。今日のEU統合は、まさにシュリーの構想の実現と言えるでしょう。
1610年、アンリ4世はラヴァイヤックという男によってルーヴル宮殿の入り口で暗殺されました。動機は政治的な怨恨でした。
ルイ13世の治世
摂政期
アンリ4世の死去当時、王子ルイはまだ9歳で統治できなかったため、母后マリー・ド・メディシスが摂政として王権を代行しました(1610年)。幼王が成長して親政を開始すると、優れた政治家アルマン・デュプレシ、すなわちリシュリュー枢機卿を宰相に任命します。
リシュリューの政治綱領
新宰相はルイ13世に、次の4つの柱からなる政治綱領を提示し、それを忠実に実行しました。
- プロテスタント勢力との闘争
- フランス貴族の屈服
- ハプスブルク家(オーストリア家)との闘争
- 文化の振興
プロテスタントとの闘い
フランスのプロテスタントはラ・ロシェルを拠点とし、反カトリック思想ゆえではなく、王政の転覆を目指す強力な政治集団を形成していました。この闘争で最も劇的な出来事がラ・ロシェル包囲戦で、リシュリュー自身も指揮に参加しました。イングランドが海路で資金と食糧を送り込んでいたため、リシュリューは港湾への船舶の侵入を防ぐ巨大な防波堤の建造を命じます。1年間の包囲の末、1万5千人が犠牲となったこの都市は、ついに王に降伏しました。
戦後、ルイ13世はリシュリューの助言によりプロテスタントに信仰の寛容を認めます。これは、王が狙ったのは政治勢力としてのプロテスタント党の解体だけであり、信仰の根絶ではなかったことを示す措置でした。
貴族の抑え込み
中世以来の封建制は、一部のフランス貴族を非常に強力にしてきました。広大な所領を所有する彼らは王権を軽んじ、王命にすら反抗を許していたのです。15世紀のルイ11世は彼らを屈服させて王権の尊重を強いましたが、ルイ13世の時代には対立が再燃します。多くの貴族がリシュリューの宰相権力を快く思わなかったためです。
枢機卿暗殺を企てる陰謀が相次いで発覚すると、王権の威信回復のため、貴族への断固たる弾圧が直ちに開始されました。マリヤック、バソンピエール、モンモランシーといった大貴族が処刑され、こうした強硬策によってリシュリューは王政を盤石なものにしたのです。
ハプスブルク家との闘争
ヨーロッパの均衡を回復するため、リシュリューはフランスを三十年戦争に介入させ、ハプスブルク家と対決しました。
フランス文化の振興
大枢機卿は文化の問題にも深い関心を払いました。言語の純潔を守り、文学と学問を振興することを目的として、40名の会員からなるアカデミー・フランセーズを創設したのです。さらに同時代の著名な文人たちにも支援の手を差し伸べました。この時代には、悲劇作家ピエール・コルネイユ、哲学者デカルト、物理学者にして哲学者のブレーズ・パスカルなどが活躍しています。
ルイ13世の後継者
ルイ13世が死去した際(1643年)、王子ルイもまだ幼く統治できなかったため、母后アンヌ・ドートリッシュが摂政となり、宰相マザラン枢機卿の補佐を受けました。リシュリューほどの輝かしい才覚には欠けていたものの、マザランは次のように行動しました。
- 増税や醜聞的な取引による浪費など、破滅的な財政運営を行った。
- 彼を権力の座から追い落とそうとする敵対勢力が組織したフロンドの乱と戦った。
- 三十年戦争を継続した。
フランス絶対主義の全盛期
フランス絶対主義の最盛期は、ルイ14世の治世に始まります。それは、王権以外にいかなる権威も存在しなかったことを意味します。独立した立法権はなく、司法権もありませんでした。王こそが最高権威であり、法を定め、正義を裁く唯一の存在だったのです。ここに「朕は国家なり」という言葉で象徴される、フランス絶対王政の頂点が訪れます。