古代の歴史

ポーランド侵攻のドイツ騎兵旅団――馬蹄と血で綴られた最後の騎馬戦

1939年9月1日、第二次世界大戦の幕開けとともに、ドイツ軍では新編成の騎兵旅団に2個騎兵連隊が配属された。一方、他の騎兵連隊は相次いで解隊され、その人員や部隊は他の編成へと分散されていった。

旅団の編成と装備

この騎兵旅団(以下「旅団」)の中核は、騎兵第1連隊と騎兵第2連隊である。これに加え、3個中隊からなる自転車部隊を擁し、各中隊は将兵195名、三脚架式MG34重機関銃4挺、二脚架式の同機関銃9挺、50mm軽迫撃砲3門を装備していた。重装備として37mm対戦車砲3門、75mm軽榴弾砲4門、81mm迫撃砲6門も保有していた。

砲兵戦力としては、75mm砲4門を装備した砲兵中隊2個からなる騎乗砲兵中隊、37mm対戦車砲12門の対戦車砲兵、20mm高射機関砲12門の対空砲兵を有していた。
さらに工兵中隊と通信中隊という固有部隊を持ち、後方支援部門として自動車化・騎馬の補給輸送縦列各2個、自動車化燃料輸送縦列、修理小隊、補給小隊、自動車化衛生分遣隊と救護車小隊、さらには獣医小隊まで完備していた。

総兵力――6,684名と4,552頭の軍馬

旅団の総兵力は将兵6,684名、軍馬4,552頭、荷馬車409台、車両427台、装甲車6両、サイドカー付きオートバイ153台、単座オートバイ165台に達した。その後、対戦車銃パンツァービュクセ39も供給され、騎兵部隊および自転車部隊ごとに2丁ずつが配備されることになった。

初陣――ミシニェツの攻略

この編成をもって旅団は、クルト・フェルト大佐の指揮下でポーランド戦役に初陣を迎えた。旅団は東プロイセンに展開したドイツ第3軍の左翼に配置され、第1騎兵連隊の先導により独波国境を越えたが、目立った抵抗には遭遇しなかった。最初の目標はミシニェツ(Myszyniec)の町であり、旅団固有の砲兵と迫撃砲による砲撃の後、これを占領した。

騎馬同士の激突

しかし間もなく、ドイツ騎兵とポーランド騎兵が正面から衝突するという、第二次世界大戦でも極めて珍しい「騎馬戦」が発生する。第1騎兵連隊の騎兵たちが、「マゾビア」騎兵旅団所属のポーランド第11ウーラン(槍騎兵)連隊と交戦したのである。ヴワディスワフ・コサコフスキ少尉率いる第11ウーラン連隊の偵察班がドイツ軍の巡邏班を発見して攻撃を仕掛けると、ドイツ側は一時パニックに陥った。だがまもなく双方の騎手は、手近なあらゆる武器を用いての混戦に突入した。決定的な結果を残せないまま両者は離脱し、互いに損害を負うこととなった。

続く9月3日には、小村フランコヴォ(Frankowo)付近で、ドイツ騎兵がポーランド第7ウーラン連隊の兵士たちと騎馬戦を展開した。今回は全兵力を投入したドイツ軍が優勢に立ち、同時に旅団司令部へ敢行されたポーランド軍の大胆な攻撃も撃退している。

ナレフ川渡河と苦戦

旅団は南東へ移動し、9月5日にナレフ川へ到達、第3軍の先鋒として真っ先に渡河した。正式に第12歩兵師団の指揮下に入り攻勢を続けたが、ここでポーランド軍の猛反撃を受けて苦戦を強いられる。ドイツ騎兵たちは歩兵として卓越した戦いぶりを見せ、辛うじて、あるいは何とか敵の攻撃を撃退した。

ナレフ川渡河後、旅団は偵察任務に従事し、ドイツ軍主力がモドリン方面のポーランド軍に集中するなか、伸びきった戦線を掩護した。旅団は9月8日から14日にかけてポーランド軍の組織的抵抗が崩壊するまで、第3軍の側面を支え続けたのである。

9月23日、最後の騎馬戦

それでもなお、ポーランド軍の抵抗拠点は各地に残っていた。9月23日、ドイツ軍とポーランド第25ウーラン連隊との間で、再び古典的な形態の騎馬戦が行われた。この戦闘で両軍は密集隊形のまま、槍と剣をもって正面から激突した。ポーランド軍は勝利を収め、そのまま旅団の陣地へ突進したが、待ち構えていたドイツ軍機関銃の十字火線によって薙ぎ払われてしまったのである。

過酷な行軍――ある伍長の証言

ポーランド戦役の終結まで、旅団が重大な任務を担うことはなかった。とはいえ、騎乗偵察班はこの戦役で大きな役割を果たしており、ホルムス伍長もその一員だった。

「1時間の休息の後、我々はまた前進した。土煙を舞い上げながら土の道を行く我々の馬を、後続の歩兵は罵倒していた。丘を登り始めた頃には、あたりはすでに薄暗くなっていた。急ぎ足での前進を命じられて腹立たしかった。私の愛馬『バロン』はもう限界だった。『私の馬はもう持たない』と伝えたその瞬間、疲れ果てた馬は膝をついた。初日に70km、2日目に60km、3日目もほぼ同じ距離を行軍していたのだ」……

「ハウバル部隊」掃討と騎兵の意義

騎兵は、伝説的な「ハウバル部隊」の無力化において決定的な役割を果たした。壊滅を免れたポーランド将兵の一団は、ヘンリク・ドブラニスキ少佐(通称ハウバル)麾下の第10ウーラン連隊の核を中心に結集していた。この部隊は他部隊の生存者や義勇兵によって次第に増強されながら戦い続け、公式な戦役終結から7か月近く経った1940年4月30日、ドブラニスキ自身が戦死するまで抵抗を貫いたのである。

地形と道路網の未整備のため、騎兵は自動車化部隊が進入できない場所へも移動できた。歩兵ももちろんどこへでも進めるが、その速度は騎兵よりはるかに劣る。こうしてケルツェ方面におけるポーランド軍残存部隊の掃討まで、追撃戦の主役を騎兵が担うことになったのである。機械化の時代の幕開けにおいて、馬上の兵士たちが示した最後の活躍と言えよう。