古代の歴史

ヒトラー率いるナチス・ドイツに与したフランス人志願兵――武装親衛隊第33師団「シャルルマーニュ」の実像

ヒトラー率いるナチス・ドイツに与したフランス人志願兵――武装親衛隊第33師団「シャルルマーニュ」の実像

第二次世界大戦中、ドイツ側で戦った外国人志願兵は決して少なくなかった。占領下に置かれた国々からも多くの者が志願し、かつての敵であるドイツの軍旗の下に立った。フランスもその例外ではなく、数千人のフランス人が「反ボルシェヴィズム」を掲げ、東部戦線でソ連軍と対峙することになったのである。

反ボルシェヴィキ義勇軍団の誕生

1941年、独ソ戦の開始とともに設立されたのが「フランス反ボルシェヴィキ義勇軍団」である。この軍団は歩兵連隊に改編され、第638歩兵連隊としてドイツ国防軍第7歩兵師団に配属された。

同連隊は1941年から42年にかけての冬、モスクワ前面で初陣を迎えた。その後は後方警備任務に回り、ベラルーシ(白ロシア)地方でソ連パルチザンに対する掃討作戦に従事している。

連隊の中核を担ったのは、フランス極右勢力やファシズム系団体のメンバーだった。また、捕虜生活の過酷さに耐えるよりも、敵国に仕える道を選んだフランス人捕虜も数名含まれていたという。

三色旗軍団との統合

ほぼ同じ時期には、もう一つのフランス人部隊「三色旗軍団」も編成された。しかし同軍団は結成から数ヶ月後に反ボルシェヴィキ義勇軍団へと統合され、フランス人部隊は一本化されることとなった。

武装親衛隊への移行

フランス人部隊は1944年夏までパルチザン掃討戦を続けた。同年、ソ連軍がベラルーシでドイツ軍の戦線を突破すると、彼らはソ連軍の猛攻を迎え撃つべく最前線に投入され、第4武装警察師団に一時的に配属された。ここでの戦いぶりが高く評価され、武装親衛隊(Waffen-SS)所属の旅団を新設することが決定した。

こうして約3,000名規模の「第8武装親衛隊フランス突撃旅団」が誕生し、フランス人将校ポール=マリー・ガモリ=デュブールドーSS大佐が指揮を執った。1944年9月、旅団は「シャルルマーニュ(Charlemagne)」の名称を与えられ、グスタフ・クルケンベルクSS准将が指揮官に就任した。

旅団は第57連隊と第58連隊の2個連隊を基幹とし、ドイツ人部隊と同様の編制が敷かれた。興味深いことに、当初の隊員たちは右袖にフランスの三色旗章をつけたドイツ国防軍の軍服を着用していたが、やがて武装親衛隊の制服へと切り替えていった。旅団の兵力は最終的に7,500名に達した。

第33武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」

1945年2月、旅団は「第33武装擲弾兵師団」へと改編された。ドイツ側はこの師団を東部戦線にのみ投入することを約束していた。しかし師団はソ連軍との戦闘で甚大な損害を被り、1945年3月には解隊寸前まで追い込まれた。わずかに残った将兵は1個中隊規模に再編成され、首都ベルリンで最後まで戦い抜くことになる。

フランス人将兵の訓練と装備は、ドイツ人やその他のヨーロッパ諸国出身の親衛隊志願兵とまったく同じ水準だった。ただし各連隊の歩兵大隊は2個のみで、第58連隊にはさらに突撃大隊が1個追加された。師団には砲兵中隊、対戦車大隊、工兵中隊、輸送中隊などが配属され、戦力強化が図られた。

ベルリン攻防戦における最期

イデオロギー的信念に突き動かされていたフランス人将兵は、ソ連軍相手に際立って勇敢な戦いぶりを見せた。第三帝国最後の戦いとなったベルリン市街戦では、勝利の見込みがないことを誰もが知りながら、信じがたいほどの英雄的な奮戦を繰り広げたのである。

皮肉な運命のいたずらか、公式には第11武装親衛隊義勇師団「ノルトラント」の指揮下に入っていたフランス人SS隊員たちは、ベルリンの「ベレ・アリアンス広場(Belle-Alliance-Platz)」周辺で戦うことになった。この広場の名は、ワーテルローの戦いの古戦場にあった同名の農家に由来する。ナポレオンを打ち倒した地の名を冠する場所で、ナポレオンの祖国の男たちが最後の戦いを演じたのである。

使用された武器

フランス人部隊の装備は、当初は98kカービン銃(マウザー)、MP38/40短機関銃、MG34機関銃といった標準的なドイツ製のものだった。その後、MG42機関銃やMP44突撃銃が供給され、火力は段階的に強化されていった。終盤の戦闘では、有名な携帯対戦車兵器「パンツァーファウスト」を大量に使用し、対戦車戦のみならず敵歩兵に対しても多用したと伝えられている。