古代の歴史

「サリッサ作戦」――実行されていれば大戦の行方を変えた幻の対ソ油田爆撃計画

「サリッサ作戦」――実行されていれば大戦の行方を変えた幻の対ソ油田爆撃計画

もし「サリッサ作戦」が最終的に実行されていたなら、第二次世界大戦は開戦直後から大きく方向転換していた可能性がある。1939年、ナチス・ドイツと共産主義ソ連が悪名高い独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)に調印したとき、世界中が驚愕した。

独ソ条約の背後にあった両者の思惑

調印した二大国には、それぞれの事情があった。ヒトラーにとってこの条約は、フランスとオランダ方面へ戦力を集中するための手札を増やすものだった。一方スターリンにとっては、まずポーランド東部を、次いでバルト三国とルーマニア(ベッサラビア、後のモルドバ)を併合するための猶予期間を与えるものだった。

「ヒトラーの同盟国」としてのソ連

英仏は当然ながら独ソの急接近を快く思わず、とりわけ恥辱的なポーランド分割には強い反発を覚えていた。それだけでも十分だったのに、スターリンは1939年11月、フィンランドへの攻撃までも開始した。

以降、西側連合国はソ連を「ヒトラーの不可欠な同盟国」とみなし、対ソ計画の策定に着手する。何よりも、この条約によってドイツは石油をはじめとする重要な原料資源や食料の供給を受けていたからだ。

ロンドンとパリは、冬戦争においてフィンランド側に即時参戦する計画を描く一方で、同時に、ソ連からドイツへの石油輸出をどう止めるかという課題に取り組み始めた。

ガムラン案――バクー油田爆撃構想

1940年2月22日、フランス軍総司令官モーリス・ガムランは、シリアから発進するフランス爆撃機によるソ連バクー油田地帯への爆撃に関する暫定計画を提出した。計画の立案者たちによれば、この爆撃はソ連の完全な崩壊さえ招きかねないというものであった。

実際、ソ連の石油生産の90%超、製油所の80%超がカフカース地方に集中していたのだ。このガムラン案は、1940年3月にイギリス側で徹底的に検討されることとなる。

「西部航空計画106号」――サリッサ作戦の誕生

イギリスはフランス案をさらに拡張し、バクーに加えてバトゥミとグロズヌイへの爆撃も盛り込んだ。計画は「西部航空計画106号」と命名され、コードネームは「サリッサ作戦」とされた。

同年3月、イギリスは強力な立体撮影カメラを搭載した民間機ロッキード14 スーパーエレクトラでソ連上空の偵察飛行を実施。この機はイラクを拠点として運用された。

新たな偵察任務は4月5日にも実行された。ソ連側は対空砲火を浴びせたが効果はなく、迎撃のため戦闘機を離陸させることすらできなかった。

航空写真の分析から、バクーとバトゥミの石油施設がとりわけ脆弱であることが明らかになった。グロズヌイはより攻略困難な目標だった。4月1日には、ブリストル ブレニムMk IV爆撃機48機からなるイギリス空軍(RAF)4個飛行中隊が本作戦に割り当てられ、少数の長距離型ウェルズリー軽爆撃機も利用可能となった。

投入予定だった戦力と作戦日程

フランス側は、アメリカ製マーティン・メリーランド爆撃機65機とファルマンF.222重爆撃機24機で参加する予定だった。最終的な計画設計を手掛けたのはRAF准将ジョン・スレッサーであり、作戦は5月15日に開始され、3か月間継続されるはずだった。

英仏の温度差

フランスは即時実行を求めたが、イギリスはより慎重だった。爆撃がヒトラーとスターリンの正式な軍事同盟を招きかねないと恐れたのである。

フランス崩壊と「シャリテ文書」

しかし、1940年5月にドイツ軍がフランスへ侵攻し、フランス軍ほか連合軍を圧倒すると、すべてが一変した。

さらに、シャリテ村ではフランス最高司令部の文書がドイツ軍の手に渡った。これが有名な「シャリテ文書」である。そこには対ソ連計画に加え、バルカン正面創設の計画も記されていた。後者は、ドイツがギリシャ攻撃を正当化する根拠として利用されることになる。

もちろん、フランス陥落後、サリッサ作戦は正式に中止された。だがスターリンは、ドイツ側からこの計画の全容を知らされることとなったのである。