
ミュンヘンの悲劇が生んだ報復作戦
1972年、ミュンヘンオリンピックにおいて、パレスチナ過激組織「黒い九月(ブラック・セプテンバー)」がイスラエル選手団を襲撃し、選手たちが殺害されるという悲劇が起きました。これを受け、イスラエルは強硬な報復を決意します。
その報復の中核となったのが「神の怒り」作戦です。そして本稿で取り上げる「若返りの泉」作戦は、この大規模な報復の一環として実行されたもので、PLO(パレスチナ解放機構)および「黒い九月」の高位幹部3名の排除を目的としていました。
実行部隊と標的となった3名
作戦はモサド(イスラエル諜報特務局)が立案・指揮し、実際の実行には陸軍最精鋭のサイェレット・マトカルと、空挺部隊のエリートサイェレット・ツァンハニムが投入されました。当時サイェレット・マトカルを指揮していたのは、後にイスラエル首相となるエフード・バラクです。
標的とされたのは次の3名です。
- アブー・ユースフ:「黒い九月」の作戦責任者であり、ファタハ・レバノン支部幹部、PLO幹部でもあり、ヤーセル・アラファートの側近の一人。
- カマル・アドワン:対イスラエル攻撃作戦を担当するPLOの活動家。
- カマル・ナッセル:PLOの代表格で、執行委員会のメンバー。
作戦は二段階で構成されていた
この作戦は大きく二つの局面から成っていました。第一段階は、ベイルートに潜伏するPLO幹部3名の殺害。第二段階は、イスラエル空挺部隊によるベイルート市内の「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」本部ビルへの強襲です。
綿密を極めた事前準備
標的の3名は、ベイルートの高級住宅地ヴェルダン地区で暮らしており、モサド工作員が常に厳重な監視を続けていました。1973年2月、工作員たちは収集した情報と写真をエフード・バラクに送付。バラクはこれをもとに作戦の準備を本格化させます。
最終的に採用されたのは、海上からの侵入という大胆なプランでした。コマンド隊員たちは船でレバノンに上陸し、観光客に変装して移動します。中には女性に扮した者もおり、バラク自身もブルネットの女性に変装して上陸したと伝えられています。海岸ではモサド工作員が車で待機し、目標の建物まで送り届ける手はずでした。その後、テルアビブ北部の住宅街を舞台に、襲撃のシミュレーションを繰り返す徹底的な訓練が実施されました。
1973年4月9日、決行の時
1973年4月9日、イスラエルの高速艇がハイファ港を出航し、レバノン沿岸へと向かいました。ベイルート沖に到達すると、ボートが海面に降ろされ、変装したコマンド隊員たちが乗り込みます。海岸には車で待ち受けるモサド工作員がおり、彼らを目標の建物へと運びました。
3つの突入チームは建物内に入り、各部屋のドアに爆薬を設置。バラク直率の予備チームは建物の外に留まり、パレスチナ側の増援に備えました。ドアが爆破されると、コマンド隊員たちは一斉に部屋になだれ込み、パレスチナ人たちを射殺し、現場にあった書類を持ち去ったのです。
しかし、この銃撃戦の過程で、パレスチナ人活動家の妻と、イタリア人入居者も巻き込まれて死亡しました。さらにレバノン治安部隊が現場に到着し、バラクの部隊と銃撃戦を交わす事態に発展。レバノン人2名がイスラエル軍の射撃によって命を落としています。
映画さながらの華麗な脱出
撤退劇はまるで映画のワンシーンのようでした。モサド工作員の車が建物前に乗り付け、全コマンド隊員が一気に乗車します。途中、レバノン軍の装甲車と鉢合わせる危機にも見舞われましたが、彼らはこれを切り抜けて海岸までたどり着き、ボートで高速艇へと駆け戻ったのです。
第二段階:PFLP本部ビルへの強襲
第二段階の作戦は、後に閣僚となるアモン・リプキン・シャハク率いる空挺隊員14名が担いました。彼らはPFLP本部ビルに突入しますが、内部にいた約100人の戦闘員から猛烈な抵抗を受けます。それでもイスラエル軍は多くの敵を排除し、最終的には建物を爆破しました。この戦闘で空挺隊員2名と戦闘員数十名が死亡し、残りの空挺隊員はヘリコプターによって撤収しています。
この「若返りの泉」作戦は、敵の心臓部へ長距離から精密に打撃を加えるイスラエルの能力を世界に示すこととなり、特種作戦史上でも最も大胆な奇襲の一つとして今日も語り継がれています。