再び忍び寄るトルコの影
1715年、ハプスブルク帝国の東部国境に、再びオスマン帝国(トルコ)の脅威が色濃く立ち現れた。その野望は、1711年にメフメト・パシャ率いる26万の大軍がプルト川の戦いでピョートル大帝麾下のわずか4万のロシア軍を撃破した頃から再燃していたのである。
従来どおりの拡張主義政策を貫くオスマン帝国は、1699年のカルロヴィッツ条約を公然と無視し、1714年にはギリシャにおけるヴェネツィア領へ侵攻した。ヴェネツィアの防衛はあっけなく崩壊し、まもなくペロポネソス半島全域がオスマン帝国の手に戻った。次の標的がバルカン半島に広がる皇帝直轄領であることは、誰の目にも明らかだった。
しかし、宣戦布告の先手を打ったのは帝国の方だった。新帝カール6世はコンスタンティノープル宛てに外交文書を送り、少なくとも自国に関してはカルロヴィッツ条約に異議を唱えない旨の確約を求めた。ところがスルタンは、返答する気すら起こさなかった。文書の代わりに送りつけられたのは、帝国領内へ放たれたタタール騎兵の群れだった。こうして1716年5月15日、新たな戦争が幕を開けたのである。
準備
ハプスブルク随一の名将プリンツ・オイゲン(サヴォイア公ウジェーヌ)は、当初からこの対トルコ戦争の開始を主張していた人物だった。1683年から1715年にかけて、オスマン帝国やフランスとの戦いで挙げた輝かしい戦功ゆえに、当然のごとく彼は対トルコ戦の全軍指揮官の座に就いた。
オイゲンはただちに精力的な活動を開始した。ドイツ諸侯の大半の支持を取り付け、さらにはローマ教皇まで味方につけた。資金が集められ、新型の武器や補給物資が調達され、1716年の夏には前線への部隊集結が始まった。同年夏、オイゲンは正式に軍の指揮権を掌握する。その目標は、ベオグラードの奪回であった。
とはいえ、オイゲンの手元にある兵力はわずか6万。だが彼の兵士たちは高度な訓練を受けた精鋭ぞろいで、その多くはスペイン継承戦争を戦い抜いた歴戦の勇士だった。一方、敵は少なくとも倍の兵力を擁し、ベオグラードをはじめとする国境要塞群の守備も大幅に強化されていた。大宰相シラーダール・アリー・パシャが指揮するのは、勇猛な騎兵3万、イェニチェリ(常備歩兵)4万、さらに統制の甘い歩兵・騎兵5万という大軍である。この巨大な軍勢は、すでにベオグラードに集結していた。
ペトロヴァラディン
オイゲンは当然ながら敵情収集にも努めていた。トルコ軍が圧倒的な大軍であること、そしてドナウ川の航行を制圧するために建造中だった河用舟艇の完成が間に合わないことを考慮し、オイゲンは当面、防御態勢をとることを決断した。ペトロヴァラディン(現在のセルビア、ノヴィ・サド)を拠点とし、城壁の大砲に守られた陣地で敵を迎え撃つ作戦である。実際、先に動いたのはトルコ軍だった。
クルト・パシャの1万の部隊を前衛に、トルコ軍は慎重に前進を続けた。8月2日、クルト・パシャの部隊はパルフィ将軍率いる3,000の帝国軍前哨部隊と接触。数に勝るトルコ軍は攻撃を仕掛け、帝国軍を押し戻すことに成功した。だが、生き残ったパルフィの兵士たちはペトロヴァラディンへ退き、オイゲンに敵襲を報告した。オイゲンは直ちに迎撃態勢を整えた。
初戦の勝利に沸き立つ大宰相は、軍を二つの梯団に分けてペトロヴァラディンへ進軍させた。狙いは同市の包囲である。この要衝が陥落すれば、帝国軍は地域最大の拠点を失うことになる。
戦闘開始
1716年8月4日、トルコ軍第一梯団――6万3,000人――が市の近郊に到達し、野営を張った。トルコ軍司令官は翌日の夜明けとともに攻撃を仕掛ける算段だった。しかしオイゲンは、その機会を与えるつもりは毛頭なかった。夜明け前には、帝国軍が先制攻撃の準備を完了していたのだ。
前夜を通じて、オイゲンは奇襲の準備を着々と進めていた。決断はすべて彼自身のものであり、幕僚たちとの協議さえなかった。朝7時、帝国軍の砲列が一斉に火を吹き、まだ眠っていたトルコ兵たちを「叩き起こした」。太鼓が鳴り響き、帝国連隊の軍旗が涼しい朝の空気になびいていく。双頭の鷲が再び翼を広げ、三日月を呑み込むべく待ち構えていたのだ。帝国歩兵は整然とした足取りで、トルコ軍陣地へ向かって前進を開始した。
騎兵隊がその前進を掩護する。トルコ軍陣地にも動揺が走った。慌ててオスマン軍の兵士たちは武器を手に取り、隊列を組もうと駆け出した。ほどなくして、重装備のトルコ軍砲兵も前進する帝国軍への砲撃を開始した。
オイゲンは敵の動き――まとまりのない動き――を注意深く観察していた。彼は歩兵を攻撃の第一梯団として投入するつもりだった。歩兵が敵の防御線を突破した瞬間、同じ攻撃軸上に騎兵を突入させる計画である。まもなく帝国歩兵は、トルコ軍陣地まで約100メートルの距離に迫った。
ここでイェニチェリたちが密集隊形を組み、剣を抜き手に恐ろしい雄叫びを上げながら帝国軍へ突撃してきた。帝国歩兵は冷静にそれを待ち受け、約20歩――15メートル――まで迫ったところで一斉射撃を浴びせた。硝煙の雲がトルコ兵を覆い尽くし、数千のイェニチェリの断末魔の叫びもその中に消えていった。奇跡的にオーストリア軍の弾幕を掻いくぐり無傷で突っ込んできた一部の者たちは、狂気じみた勢いで帝国歩兵に斬りかかり、多くの兵士を殺傷した。
騎兵突入
だが、彼らもやがてオイゲンの兵士たちの銃剣のもと、一人残らず討ち取られていった。戦闘は極めて凄惨な様相を呈した。双方とも捕虜は取らなかった。徐々にオイゲンの部隊はトルコ軍を圧倒し、敵戦線を突破すると、帝国騎兵が続々と戦場へ投入された。これがとどめの一撃となった。
突撃の喇叭が高らかに鳴り響くなか、胸甲騎兵たちは剣を振りかざし、悪魔のごとく疲弊しきったトルコ兵に襲いかかった。より軽装の帝国騎兵は巧みに機動してトルコ騎兵の側面へ突撃し、他の騎兵部隊が正面からこれを食い止めた。ほんの数分で決着がついた。イェニチェリは虐殺され、帝国歩兵は敵の野営地へ雪崩れ込んだ。そして胸甲騎兵たちは、トルコ歩兵を壊滅させると今度はトルコ騎兵に矛先を向けた。まもなくオスマン騎兵も潰走した。
復讐
2時間足らずで、トルコ軍の第一梯団は消滅した。大宰相を含む3万を超えるトルコ兵が、戦場の至る所に死体となって横たわっていた。「捕虜にしたのは20名あまり。兵士たちは血を求めて、皆殺しにした」――オイゲン麾下のある士官はそう書き残している。そうなるほかなかった。それはトルコ軍の抵抗の激しさのためではない。帝国兵たちが、オスマン軍の野営地に踏み込んだ瞬間に目にしたもののためだった。
兵士たちが驚愕の中で目にしたのは、先の戦闘で捕虜になっていた自分たちの仲間の姿だった。十字架に磔にされ、鉄鉤で刺し貫かれ、あるいは恐るべき方法で肢体を切断され、焼かれ、撲殺されている――そんな惨状だった。この光景を目の当たりにし、しかも同僚の仇を討つ絶好の機会を前にしては、勝利に酔う兵士たちがトルコ人の捕虜を手厚く扱うなど、まず考えられなかったろう。オイゲン自身、この惨状の前では怒りを抑えることができず、セルビア人やヴラフ人出身のトルコ側の密偵・斥候を捕らえた際、鞭打ちの刑に処するよう命じたほどだった。