考古学的発見

アエネアスのヘロン(英雄廟)が初公開――伝説の古代都市ラウィニウムの考古学地区

トロイアの英雄アエネアスゆかりの聖域「アエネアスのヘロン」を擁する古代都市ラウィニウムの考古学地区が、2022年1月7日についに一般公開されました。

ローマ神話に登場する伝説の港町

ラウィニウムの遺跡は、ローマの南約53キロメートルに位置するプラーティカ・ディ・マーレの町にあります。ローマ神話によれば、この港町はトロイアの英雄アエネアスが築いたもので、彼は亡き妻ラウィニアにちなんで街に名前を付けたと伝えられています。

しかし考古学的な証拠が示すところによれば、街の起源はさらに古く、青銅器時代にあたる紀元前12世紀までさかのぼります。そして紀元前6世紀に最盛期を迎えたと考えられています。

1955年の発掘で見つかった直径18メートルの墳丘墓

この遺跡は1955年、ローマ・サピエンツァ大学の地形学者フェルディナンド・カスタニョーリと考古学者ルーコス・コッツァによって発掘されました。その結果、直径18メートルの墳丘墓(バリアム)が発見され、内部からは紀元前7世紀に年代づけられる60点以上の遺物が出土しました。

出土品には戦車、武器、装身具、葬送儀礼に用いられた儀式用の器などが含まれていました。また、この墳丘墓は紀元前4世紀に改修が加えられており、大きな凝灰岩の扉で閉ざされた正方形の部屋が増設されています。

「ヘロン」とは何か

古代ローマ人はこの墳丘墓を「アエネアスのヘロン」と呼びました。ヘロンとは、ギリシャとローマの両方で英雄を祀るために建てられた聖域のことです。多くの場合、その英雄の墓とされる場所、あるいは遺骸が眠っていると信じられていた場所に造営されました。

紀元前60年頃から西暦7年頃にかけて活躍したギリシャの歴史家ディオニュシオス(ハリカルナッソスのディオニュシオス)も、ラウィニウムのヘロンについて言及しています。

ウェルギリウス『アエネイス』の源流となった記録

アエネアスによるラウィニウム建国を記した最古の文献は、ギリシャ語で著述したローマの元老院議員にして歴史家、クィントゥス・ファビウス・ピクトルの作品です。彼は同時代の人々から「年代記作者(アナリスト)」としてやや軽んじられていましたが、その叙述はまさにアエネアスの到着から始まっています。彼の著作は今日ではポリュビオスやリウィウスといった後世の作家による引用の中でのみ残されており、ウェルギリウスはまさにそこから物語を取り入れ、不朽の名作『アエネイス』として結実させたのです。

13基の祭壇が語るラティウム連盟の宗教的中心地

その後の発掘調査では、一列に並ぶ13基の祭壇からなる聖域が発見され、近年になって14基目も新たに確認されました。これらはすべて紀元前6世紀から4世紀にかけてのものであり、考古学者たちは当時のラウィニウムがラティウム地方最大の宗教的中心地であったと説明しています。各祭壇は、ラティウム連盟を構成する重要な都市の一つひとつを象徴していたと考えられるのです。

アエネアスのヘロン(英雄廟)が初公開――伝説の古代都市ラウィニウムの考古学地区

ラティウム連盟は約30の町や村から成り、当初はアルバ・ロンガが盟主でした。しかし間もなくローマが主導権を握り、これらの都市を自らの防衛のために利用するようになります。

遺跡内には、ミネルウァ神殿の跡や、テラコッタ製の奉納像を作るために使われた2基の窯の遺構も残っています。

都市の衰退と中世以降の歴史

紀元前5世紀になると街は衰退し始め、地震による深刻な被害を受けた可能性があります。紀元前2世紀までには、かつての宗教的中心地としての重要性を失い、「娘」であるローマの拡大の影に隠れていきました。

中世の1200年頃には、現在のプラーティカ・ディ・マーレの町がラウィニウムのアクロポリス(城塞部)の上に建設されます。この土地の所有権はローマ貴族の諸家の間で受け継がれ、最終的にボルゲーゼ家の手に渡りました。今日でも所有権は同家にあり、考古学的な発掘調査を行うには同家の許可が必要とされています。

50年以上待たれた一般公開の意義

この所有権の問題こそが、一般公開が50年以上も実現しなかった最大の理由でした。「ローマがローマになる前」の重要なラティウムの遺跡を目にできるこの機会は、まさに唯一無二のものといえるでしょう。この地域を訪れる機会があれば、ぜひ見逃さないでください。