ラオス・ジャール平原で2500年前の埋葬人骨を発見
東南アジアで最も著名な考古学遺跡の一つ、ラオス北部の「ジャール平原(Plain of Jars)」。この神秘的な場所で、オーストラリア国立大学(ANU)の研究チームが、約2500年前の埋葬を発掘した。

ジャール平原では、かつて数十年にわたる紛争が続いたため、本格的な調査は近年までほぼ不可能だった。しかしその後、考古学的発掘調査が再開され、新たな発見が相次いでいる。
鉄器時代の「壺の墓域」
今回の発掘を実施したのは、ダグアルド・オライリー(Dougald O'Reilly)氏が率いるオーストラリア考古学プロジェクトのチームである。同プロジェクトは、オーストラリア研究評議会(ARC)、モナシュ大学、そしてラオス情報文化観光省の支援を受けて進められている。
ジャール平原は、首都ヴィエンチャンから北東約250キロメートルに位置するシエンクアーン州の山岳地帯に広がる、鉄器時代の甕(かめ)墓群だ。東南アジア有数の重要な考古学遺産とされ、2005年にはユネスコ主導の最初の調査により52カ所の遺構が確認された。その後の調査で登録数は増え続け、現在では90カ所に達している。
そもそも1930年代に、北東ラオスの丘の頂上で高さ1〜3メートルに及ぶ数百個の石製の壺が発見され、この遺跡群は世界中の注目を集めることとなった。

巨大な石壺の正体とは?
こうした新たな研究により、考古学者たちは紀元前500年頃から西暦600年頃にかけて、この平原で何が起きていたのかをより正確に把握できるようになるだろう。
当時の住民は、洞窟や採石場、あるいは地表に露出した花崗岩の塊から巨大な壺を切り出し、それを丘の頂上まで運んだと考えられている。高さは1〜3メートル、重さは数トンに達する。
プロジェクト責任者のオライリー氏は次のように説明する。「これらの壺はおそらく、死体が腐敗する間、遺体を一時的に安置しておくために使われていたのだろう」
実際、過去の調査では、一部の石壺の足元から深さ約30センチに埋められた小型の陶製の壺が出土している。その周囲にはメノウや貝殻のビーズ、青銅器などが集められており、これら円筒形の容器の内部からは人骨が確認されていた。
そして今年、オーストラリアチームはさらに、開けた地面に直接掘られた約2500年前の土坑墓を発見した。これはジャール平原で初めて確認された事例であり、この一帯が墓域であったことを裏付ける決定的な証拠となる。

発見者はフランス人研究者マドレーヌ・コラニ
この謎めいた遺跡群(現地語で「トーンハイヒン」)の発見の功績は、極東フランス学院(EFEO)の研究者だったフランス人女性、マドレーヌ・コラニ(Madeleine Colani)に帰せられる。彼女は著書『ラオスの巨石記念碑』の中で、これらの遺跡について詳細に記録している。
地元では古くから、「バッファロー王(水牛王)の米酒を貯蔵する容器だった」「雨水を溜めるためのものだった」といった伝説が語り継がれてきた。しかし今回のオーストラリアによる大規模な調査は、そうした伝説とは一線を画し、学術的な研究を本格的に始動させるものである。
さらにこの調査は、いまだユネスコ世界遺産リストに登録されていない、アジア屈指の考古学遺跡の正式登録へとつながる可能性も秘めている。
かつて世界最悪級に危険だった遺跡
ジャール平原の研究が大きく遅れた理由は、この場所が長らく「世界で最も危険な考古学遺跡」の一つだったからだ。20世紀の戦争の残骸である大量の不発弾(UXO)が、地面に埋め尽くしていたのである。
植民地時代の戦争に続き、1964年以降はアメリカ軍とCIAの作戦が展開された。ラオスはベトナム戦争の歴史において「最も爆撃を受けた国」という悲しい記録を持つ。1964年から1973年のわずか9年間に、実に200万トンもの爆弾が投下されたのだ。
パテート・ラーオ(ラオス共産勢力)と北ベトナム軍に対しアメリカが仕掛けた「秘密戦争」の最中、ジャール平原の遺跡群内部には16カ所もの対空砲(DCA)陣地が隠されていたという。2005年までに、わずか1つの遺構からだけで127個以上の不発弾が発見されている。
もっとも、それは今や過去の話となった。すべての考古学遺跡では徹底した不発弾除去作業が完了しており、現在は安全に調査・見学が行える状態にある。

1964〜1973年のアメリカとパテート・ラーオとの秘密戦争中、ラオスのジャール平原の考古学遺跡の中心部には対空砲陣地が隠されていた。絵画がその様子を今に伝える。©Bernadette ARNAUD