ドイツ北東部、ヨーロッパ最古の戦場として知られる遺跡から、明らかに裸の女性を表す非常に奇妙な小像が発見されました。トレンセ谷に激しい戦いの爪痕を残した紀元前13世紀の戦闘から約600年後、およそ2700年前に制作されたこの静謐な小像は、いったい何のために作られたのでしょうか。

ドイツ北東部のトレンセで発見された青銅製の小像は、裸の女性を表しており、紀元前7世紀にさかのぼります。
潜水調査が明かしたヨーロッパ最古の戦場
1990年代以降、ロナルト・ボルクヴァルト氏はドイツ北東部を流れるトレンセ川で定期的に潜水調査を行ってきました。彼の調査をもとに、メクレンブルク=フォアポンメルン州の考古学者たちとグライフスヴァルト大学の研究者たちは、トレンセ川の流れが刻んだ谷が、紀元前13世紀に恐るべき戦いの舞台となったことを実証しました。これはヨーロッパ最古にして、青銅器時代最大規模の戦闘とされています。
それ以来、全長2.5キロメートルに及ぶ遺跡からは数千点におよぶ遺物、武器、人骨が出土しており、まだ多くが埋蔵されたままです。2020年7月の新たな発見もその一例です。それは赤褐色の擬人形小像でした。ゲッティンゲン大学の考古学者トーマス・テルベルガー氏率いるチームの分析によると、この小像は戦闘後の時代に属します。すると新たな疑問が浮上します。これは何を表し、何に使われたのか。そして何より、この特別な場所と何らかの関係があるのか。ドイツの研究チームは、学術誌『Prähistorische Zeitschrift(先史学雑誌)』に発表した論文でこの謎の解明を試みました。
女性的特徴を備えた小像
トレンセ川の泥炭層の中で数世紀もの間隠されていたこの青銅製小像は、高さ約15センチ、重さ155グラムで、ほとんど腐食していません。卵形の頭部には額から鼻へと続く隆起が目立ち、目は小さな突起で表されています。胴体の乳房も同様に突起状です。手のない腕は半円形に曲げられ、腰はベルトで強調され、そのベルトは首元の輪飾りと二重になっています。外陰部はかすかに見える彫りと小さな縦の切れ込みで示され、脚は膝を突き出して曲げられています。この小像が裸の女性を表していることはほぼ間違いありませんが、自立して立たせることはできません。
バルト海周辺で見つかった13体の「首飾りの女神」
研究者たちはこれを「例外的な遺物」とみなし、トレンセ遺跡からわずか35キロしか離れていないクライン・ツァストローで19世紀に発見された別の小像と比較しています。同じタイプの小像は「首飾りの女神」と呼ばれ、バルト海に面するデンマークとスウェーデンの複数の遺跡からも出土しています。具体的には、コペンハーゲンがあるデンマーク最大の島シェラン島、スウェーデン最南端のスコーネ地方、そしてスウェーデン西海岸のヴェストラ・イェータランド県です。全体で13体の類似した小像が確認されていますが、表現の細部には違いがあります。ドイツで見つかった2体が最も大きく、中でもトレンセの小像が最も重いのです。
研究者たちは、これらの小像が単一の起源を持つ可能性は低いと結論付けています。共通しているのは分布域であり、すべてバルト海沿岸か、バルト海につながる川の近くで発見されている点です。これは西バルト海の交通路、そして西ポンメルンとエーレスンド海峡(スウェーデンのスコーネとデンマークのシェラン島を隔てる海峡)周辺地域との緊密な交流圏との関連を示唆します。研究者たちは、この時代の岩絵にしばしば描かれるヒョルトシュプリング型の舟によって、これらの地域が海路で結ばれていたと推測しています。

スコーネ地方で発見された小像。© Christer Ählin / Historiska Museet Stockholm
ねじれた首飾りが年代決定の手がかりに
小像の年代を特定するうえで、研究者たちが注目したのは、一見すると純粋に女性的な装飾に見える細部、すなわち首元に表された2つの輪です。青銅器時代末期には、ねじれた首飾り(Wendelringe)が対で沼地に供物として納められており、亡くなった女性の中にも首に着けた者がいました。スウェーデンで発見された小像のいくつかでは、首飾りに交互の刻み目が施されているのが確認でき、これがねじれた輪であると特定できます。この特徴から、これらの小像はおそらく紀元前7世紀末に制作されたと推定されます。

青銅器時代後期の首飾りWendelring。鋳造後にねじり加工が施された青銅製。© Sörmlands Museum
女神でも分銅でもない?
次に課題となるのは、この小像の機能です。ドイツの研究者たちはまず、過去に「首飾りの女神」について検討されてきた諸仮説を整理しました。当初スウェーデンの研究者たちは、小像は女神を表しているように考えました。しかし、これらの像が青銅器時代の他の彫像に比べて芸術的に劣っていたため、貧しい人々向けの安価な量産品ではないかと推測したのです。ところがドイツの研究者たちは、発見数のごく少なさがこの説と矛盾すると指摘します。
2つ目の仮説は、スウェーデンの考古学者マッツ・マルメール氏が提唱したもので、小像は分銅(重量計測)システムの一部を表すというものです。それぞれの重量から、約26グラムの単位をおよそ導き出すことができます。トレンセの小像は約6×26グラムなので、この枠組みに当てはまります。しかしドイツの研究者たちは、小像の表現の多様性から、分銅であることには疑問を呈します。せいぜい、計量された金属量に対応する「重量調整品」である可能性はあるものの、当時のこの地域における分銅の使用に関するデータがまだ不足していると付け加えます。近隣のラウジッツ地方で実際に使われていたことが知られている唯一の具象的な分銅は、直径に溝が刻まれた細長い石カネウレンシュタイン(Kanneurensteine)です。この仮説は否定こそされていませんが、現時点の知識では確認できません。さらに前述の仮説と同様、発見数の少なさが、分銅システムへの使用を事実上否定しているように思われます。
記念としての埋納か
別の解釈を支持するドイツの研究者たちが重要な手がかりとしたのは、小像が発見された場所です。すべて湿った土地、あるいはかつて湿地だった場所で見つかっています。当時、水域や湿地は冥界への移行領域とみなされる、特別な意味を持つ場所だったため、意図的な埋納(供犠的納品)だったと考えられます。さらに、すべての発見地点は交通路にも一致しています。トレンセ遺跡の南では、紀元前19世紀末に築かれた堤道の遺構が確認されており、幅3メートルの石造り(一部は木造)の道が谷を横断し、浅瀬で川を渡れるようになっていました。この道は、500年以上後に起こった流血の争いの発端になった可能性があります。
研究者たちは、小像の埋納もこの歴史的な戦いと関係していると推測します。その激しさは間違いなく集団の記憶に深く刻まれたはずだからです。つまり、トレンセの戦いを記念するための儀礼用の小像だった可能性があるのです。研究者たちにとってこれが最も有力な仮説ですが、トレンセの小像や他の「首飾りの女神」が投げかける謎は、依然として解明されていないことも認めています。