アッシリア、ペルシア、そしてギリシャ……侵略者たちは次々と衰えたエジプトを席巻しました。しかしエジプトの文化は色あせることなく息づき続けます。アレクサンドロス大王の後継者たちは現地の伝統の一部を受け入れ、新首都アレクサンドリアを中心としたヘレニズム文化を築き上げたのです。

本記事は『サイエンス・エ・タヴニール(Sciences et Avenir)』2019年4~5月号別冊第197号に掲載されたものです。
歴史
第三中間期
第21王朝~第25王朝(スーダン系王朝)(約紀元前1069年~前664年)
ファラオ・スメンデスは新王国を揺るがした動乱に終止符を打ち、第21王朝を創設しました。首都にはペル・ラムセス北方の新都市タニスを選んでいます。しかし複数の侯国に分裂したエジプトは、相次ぐ外敵の侵入に苦しむことになりました。
後期王朝時代
第26王朝(サイス朝)~第31王朝(ペルシア王朝)(紀元前664年~前332年)
アッシリア人は紀元前664年にテーベを略奪しましたが、その一方でスーダン系の勢力をヌビアへと押し戻しました。そしてリビア系出身のデルタ地方の王子を父に持つサイスのプサメティコス1世を王位につけ、彼は紀元前656年に国家を再統一します。ところが紀元前525年、プサメティコス3世は侵入してきたペルシア王カンビュセス2世の軍に降伏。エジプトは2世紀弱にわたりアケメネス朝ペルシア帝国の一州となったのです。
プトレマイオス朝時代(紀元前332年~前30年)
紀元前332年、マケドニア王アレクサンドロスの軍勢がエジプトを支配下に置きました。アレクサンドロスが紀元前323年に死去すると、彼の部将の一人プトレマイオスが王位に就きます。プトレマイオスはプトレマイオス朝(紀元前305年~前30年)を開き、この王朝は以後3世紀にわたって東地中海世界を支配することになりました。
政治と宗教
政治的・文化的な不安定さがこの時代を特徴づけています。第21王朝(タニスの王たち)の時代、権力の中枢は下エジプトにありました。一方、上エジプトと中部エジプト(アシュート周辺)は、ファラオと姻戚関係を結ぶアメンの神官たちによって統治され、テーベの彼らの神殿が地域の政治・経済生活を支配していました。タニスの王家の墓はエジプトの繁栄(第22王朝まで)を物語っており、そこから出土した品々は、ツタンカーメンの墓から見つかったものに匹敵する質の高さを誇ります。
動物崇拝は紀元前1千年紀にかつてない規模へと拡大しました。ギリシャ的な文化的アイデンティティを持つプトレマイオス朝の王たちも神殿を建て、エジプト王の属性を掲げ、さらには王政の終焉(紀元前30年)後も、聖域の浮き彫りに自らをファラオとして描かせることで、その記憶を永続させたのです。
象徴的な人物
ネクタネボ2世は最後のファラオ(在位:紀元前358年~前341年)です。第30王朝の3代目にして最後の王であり、エジプト人自身による統治としては最後の王朝に連なりました。「建設王」と呼ばれた彼は、上エジプトのデンデラに現存最古のマムミシ(誕生神殿)を建てています。紀元前351年にはペルシア軍の侵攻を退けましたが、紀元前343年のアルタクセルクセス3世率いる軍勢の侵入には抗しきれませんでした。
クレオパトラ7世(在位:紀元前51年~前30年)はギリシャ系王朝の出で、ギリシャ・マケドニア文化に育ちながらもエジプト語を話しました。18歳で女王となった彼女は、エジプトの偉大さを回復させた政治的手腕よりも、ユリウス・カエサル、次いでマルクス・アントニウスをも虜にした伝説的な魅力で知られています。紀元前30年、アレクサンドリアに上陸して財宝を奪い宮殿を略奪したオクタウィアヌス(後の初代皇帝アウグストゥス)を前に、彼女は自ら命を絶ちました。ファラオのエジプトの単なる継承者にとどまらず、クレオパトラはヘレニズム政治史における象徴的な存在なのです。
葬祭芸術
ミイラにされた猫とトキ
先史時代の終わり頃(約紀元前4000年)から、エジプト人たちは動物の姿の神々を崇拝してきました。統一王朝成立後(約紀元前3100年)、神々には人間の姿が与えられますが、動物的な特徴が隠されることはありませんでした。各都市の守護神には聖なる動物が結びつけられ、エジプト人は像や、時には実物の動物を通じて崇拝を行いました。その動物は死ぬまで神の生きた姿とみなされたのです。
紀元前1千年紀に入ると、地元の神の聖獣への崇拝は種全体へと拡大します。こうした動物を食べたり危害を加えたりすることが禁じられるようになりました。一方、神殿では神官たちが猫、トキ、魚、犬などを飼育していました。これらは神々への願い事や感謝の使者として神のもとへ遣わされる存在と考えられていたのです。信心深い人々はそれらの動物を買い取り、屠ってミイラにし、埋葬してもらいました。サッカラのようなネクロポリス(死者の都)には、100万体を超える動物のミイラが納められています。
遺跡と建造物
上エジプトに現存する保存状態の良い神殿の多くは、この時代に建立されました。ルクソール南方に位置し、ホルス神に捧げられたエドフ神殿、ルクソール北方のハトホル神に捧げられたデンデラ神殿、ナイル川第一急流の島に建つイシス神に捧げられたフィラエ神殿は、ギリシャ・ローマ式神殿建築の代表格です。記念碑的な入口(「塔門」=パイロン)、列柱廊、無数のヒエログリフが刻まれた壁面、そして主神殿の近くに設けられた小礼拝堂「マムミシ」(第30王朝以降)などがその大きな特徴です。
エジプトと隣国
サイス朝の王政は繁栄の時代を切り拓きました。紀元前600年頃、地中海および東アフリカとの交易拡大を目指したネコ2世(プサメティコス1世の子、第26王朝)は、ナイル川と紅海を結ぶ運河の掘削事業に着手しています。しかしその領土は、豊かなヌビア、パレスチナ、フェニキアからは切り離されたままでした。アレクサンドロスの征服(紀元前332年)によりエジプトが広大な帝国に組み込まれると、権力の中心は新首都アレクサンドリアへと移ります。同市は文化・芸術の拠点として栄え、もはやエジプトの都市ではなく、地中海に面したヘレニズム都市となったのです。
芸術と技術
民主化されたミイラ製作
第三中間期には、新王国時代に始まった防腐処理技術の洗練がさらに進みました。第22王朝からは、遺体の保存を望む中産階級向けに簡略化された手法が提供されるようになり、後期王朝時代には庶民の階級にも及びます。手早く済ませる工程のため、出来栄えは必ずしも良好とは言えませんでした。プトレマイオス朝時代には、ミイラ製作を次第に受け入れたギリシャ人自身が、需要の増大に拍車をかけることになります。
プトレマイオス1世はアレクサンドリアの最も有名な建造物群を築きました。今日では失われた驚異――大灯台、図書館、そしてセラピス神殿です。篤く信仰された神セラピスは、オシリスやアピス、さらにゼウスやハデスに着想を得たもので、エジプト人とギリシャ人を同じ信仰のもとに結びつけることを狙った、王が意図した習合(シンクレティズム)だったのです。
文:ロリーン・ブイッスー(Laureen Bouyssou)