
1911年12月、イギリス国王ジョージ5世の即位を祝う大儀礼「デリー・ダーバール」がインドで開催されました。インドの歴史において、イギリス君主が「インド皇帝」として正式な戴冠式を行ったのは、これが最初で最後のことでした。各地の藩王たちがこぞって祝賀行列や皇帝への謁見に参列するなか、ただ一人、メーワール(ウダイプル)のマハーラーナー・ファテー・シングだけは、頑として出席を拒んだのです。
ダーバール不参加を支えた動き――匿名の手紙の証言
実はこの時期に行われた「ニメージュ殺人事件」裁判における被告人たちの証言から、当時すでに詩人ケサリ・シン・バーと、ハールワー族出身のタークール(貴族)ラーオ・ゴーパール・シングが、マハーラーナーのダーバール不参加を後押ししていたことが明らかになっています。
被告人の一人、ソームドゥット(別名トリヴェーニーダース・ラーヒリー)は、自身の供述書の中で次のように語っています。メーワールのサルダール(諸侯)名義で匿名の手紙が作成され、その正確な筆跡を書いたのは自分自身だったというのです。手紙にはこう記されていました。
「マハーラーナーはスーリヤ王朝(太陽朝)の血を引く者である。かつてムガル帝国の前ですら、決して頭を下げることはなかった。外国人(フィランギー=イギリス人)の前に屈するくらいならば、自ら命を絶つほうがよほど相応しい。」
この手紙は、タークール・ゴーパール・シングの指示を受けたラーヒリーによって、アジュメールの郵便局から送付されたとされています。ムガル帝国の時代にも屈することのなかったメーワールの武門の誉れを、イギリス支配の下でも守り抜けという強い意志が込められた一通でした。
世界が見つめた「消えゆく灯りの最後の輝き」
歴史家ラグビール・シングは、次のように記しています。1911年、再びデリー・ダーバールの開催が決まると、ラージャスターンの諸王たちはその成功のために全力を挙げました。インド史上初めて、そして最後となる機会に、新しいイングランド王ジョージ5世はデリーの地で「インド皇帝」の座に就き、インド各地の藩王たち、さらにはラージャスターンの諸王たちからの服属の誓いを受け入れたのです。
しかし、そのときもなお、マハーラーナー・ファテー・シングは歩み寄りませんでした。デリーに滞在していながら、祝賀行列には加わらず、皇帝との謁見の儀にもついに姿を現さなかったのです。世界は驚嘆の目をもって、消えかけたメーワールの灯りが放つ最後の輝きを見つめました。数百年にわたり外国の支配者に頭を下げなかった独立の誇りは、イギリス帝国全盛の時代においても、なお生きて息づいていたのです。