歴史上の人物

アドリアン・デュポール(1759-1798):フランス革命を駆け抜けた法学者・政治家

アドリアン・デュポール(1759-1798):フランス革命を駆け抜けた法学者・政治家

アドリアン・デュポール(Adrien Duport、1759年-1798年)は、フランス革命期に活躍した優れた法学者であり、熱心なフリーメイソンでもあった人物です。貴族出身でありながら革命の理念に深く共鳴し、その短い生涯を司法改革と自由主義的な政治の実現に捧げました。

三部会と国民議会での活躍

1789年に召集された三部会では、貴族身分の代表として選出されました。しかし彼はまもなく第三身分(平民)側に合流し、革命推進の中心的な存在となっていきます。

特に有名なのは、バルナーヴ(Antoine Barnave)およびラメット(Alexandre de Lameth)とともに結成した「三頭政治(トリウンウィラート)」と呼ばれる派閥です。三人は国民議会内で強い影響力を誇り、議会運営や法制整備において重要な役割を果たしました。デュポール自身も、陪審制度の導入など刑事司法改革に尽力したことで知られています。

フイヤン派の結成と王政への接近

その後、三頭政治の面々はジャコバン倶楽部から分離し、穏健な立憲君主主義者たちによる「フイヤン派」クラブを結成しました。このクラブ内部では、ラファイエット侯爵(La Fayette)との間で主導権をめぐる対立が繰り広げられました。

デュポールは次第に国王ルイ16世に接近し、立憲君主制を支える立場へと移っていきます。革命の急進化に対して警戒心を強めていたのです。

亡命と静かな最期

しかし、1792年8月10日、パリの民衆と民兵がテュイルリー宮殿を襲撃し、事実上の王政打倒となる蜂起が起こります。デュポールはその翌日、フランスを脱出してスイスへと逃れました。

帰国することのないまま、彼は亡命先で結核に罹患し、1798年にほとんど無名のまま世を去りました。かつて革命の中枢で華々しく活躍した人物の、あまりにも寂しい最期でした。