
スペイン継承戦争は1704年以降激化を極めていましたが、1712年7月24日のデナンの戦いにおけるフランス最後の大勝利によって、その幕を閉じることになります。わずか4~5時間の戦闘でありながら、軍学校で戦略の手本として称えられるこの戦いは、計り知れない結果をもたらしました。この勝利によって1713年4月にユトレヒト条約の締結が実現し、現在とほぼ変わらないフランス北部の国境線が画定したのです。
デナンの戦い前の情勢
1701年、ルイ14世の孫アンジュー公フィリップがスペイン王位に就いたことが、スペイン継承戦争の発端となりました。ヨーロッパおよびスペイン植民地におけるフランスの勢力拡大は、ライスウェイク条約(1697年)によって築かれた勢力均衡を脅かし、フランスは神聖ローマ帝国およびイングランドとの戦争に巻き込まれていきます。
この継承戦争は当初、フランス王国にとってしばしば壊滅的な戦いの連続でした。相手はイングランド、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)、オーストリア、サヴォイア、プロイセン、神聖ローマ帝国からなる大同盟軍で、敵軍はオイゲン・フォン・ザヴォイエン(サヴォイア公ウジェーヌ)とマールバラ公という二人の名将に率いられ、フランス側はヴィラール元帥がこれに対峙していました。

しかし当時、イングランドは莫大な戦費負担に耐えかねて講和条約の締結を目指しており、ルイ14世との休戦を受け入れます。こうしてイングランドは7月17日に戦線から離脱しました。ところがオイゲン公はそれに同意せず、フランス北部での一大決着をもって紛争を終わらせようと戦争を継続します。それこそが「デナンの戦い」だったのです。
すでにリール、ドゥエー、ル・ケノワを攻略していたオイゲンにとって、パリへ進軍するために残された拠点はランドレシーただ一つでした。装備の整った13万人の兵力を持つオイゲンに対し、フランス軍は約7万人。しかも疲弊し、砲兵も弾薬も不足していました。
両軍の布陣
地図上では、北にマルシェンヌ、南にランドレシー、中央にデナン、右側にル・ケノワ、そのやや右上にヴァランシエンヌが位置します。
7月17日、オイゲン公は食料庫のあるマルシェンヌから60km離れたランドレシーの間に部隊を展開させ、その中間点であるデナンには守備隊を置きました。そして食料と弾薬の輸送のため、マルシェンヌとデナンを結ぶ小道を整備し、「パリへの道」と名付けます。道の両側には塹壕を掘り、高さ約8メートルの石造りの胸壁と防柵を設けて、付近で何が行われているのか外部から窺えないようにしました。とりわけヴァランシエンヌのフランス軍陣地からは見通せないよう入念な配慮がなされています。さらに主力となる30~40個大隊をランドレシーに配置しました。
一方、ヴィラール元帥は決戦の命を受けます。攻撃地点と最善の方法について幾度か逡巡した末、敵の兵力を考えるとランドレシーへの正面攻撃は不可能と判断し、デナンを選択しました。攻撃は7月24日の夜明けに行われる予定で、狙いは補給路の切断です。しかし部隊は深夜のうちに30kmを強行軍し、川を渡河したうえで敵陣を攻撃しなければなりません。
デナンの戦いの経過
7月23日午後5時頃、先遣部隊がスヘルデ川に橋を架け始めました。夕刻には竜騎兵がランドレシー前面で陽動作戦を展開します。その間に本隊は、馬蹄と車輪に布を巻いて音を消し、ひそかに前進していきました。

7月24日午前5時、ヴィラールは前進が予定どおりに進んでいないことを知らされます。さらに、部隊が気づかれずに移動できたかどうかも怪しくなっていました。6万人が動けば、それなりに物音がするものです! しかしモンテスキュー元帥から「敵の動きはなく、哨戒兵の姿も見えない」旨の報告が入り、進撃の続行が可能となります。
午前7時、橋がようやく架かり、先遣隊が渡河を開始しました。このときデナンの陣営にはアルベマール伯率いる2万人のオランダ軍がおり、近郊の6個大隊による援護も受けていました。
午前8時、ついにフランス軍が敵に発見されます! アルベマール伯は同盟軍を起こすべく6発の砲撃を行いましたが……もはや遅し! ブロイユ伯の騎兵隊が退却するアルベマール伯の部隊を蹴散らし、「パリへの道」を突き進んで食糧輸送の大隊を壊滅させました。一方、フランス軍の実力を過小評価していたオイゲン公は、この時まさに食事中だったのです。

午前10時、自軍の敗走を知らされたオイゲン公は、6個の救援大隊をデナンへ差し向けます。ヴィラールはオイゲン公の対応に困惑しました。「なぜもっと早く反応しなかったのか? 何か罠を仕掛けているのではないか?」そこでヴィラールは、まだ渡河していない部隊に後方警戒のため整列するよう命じますが、モンテスキューが再び攻勢を主張して前進を促した結果、二人はともに渡河することになりました。
オイゲン公が造らせた道は決して広くありません。3万人をどう前進させるのか? 右翼にヴィラールとモンテスキュー、左翼にヴィユー・ポンとダルベルゴッティ、中央にナンジス侯爵とモンテマール公が立ち、14個縦隊の兵士が各20メートル間隔で続きました。
午後1時30分。フランス軍は密集隊形で前進し、塹壕を下り、向こう側に駆け上がり、オランダ軍の銃火と砲撃を浴びながら防柵になだれ込みました。この一連の攻撃はわずか20分の出来事です。オランダ軍は逃走し、フランス軍は目の前の敵を一掃すると、敗残兵をデナンの橋まで追撃しました。ところが橋は荷車と逃げる兵士の重みに耐えきれず崩落! 多くの敵兵がスヘルデ川に飲み込まれたのです。
戦争の帰結
アルベマール伯は捕虜となり、デナンはフランス軍の手に奪回されました。宮廷のルイ14世のもとでは、サン=シモン公爵が記す通り「歓喜が溢れ出すほど」の祝賀ムードに包まれました。

これはフランス史上屈指の軍事的成功の一つであり、ヴィラール元帥の言葉を借りれば「王国を危機に陥れることになったような会戦ではない」のです。
フランス軍の損害は戦死者865名、負傷者1,075名と軽微でした。一方、敵軍は約2,500名が溺死、2,500名が死傷、3,000名が捕虜となり、さらに1万~1万5,000名が戦闘不能に陥りました。
敵の士気は大きく損なわれます。何より、オイゲン公とマルシェンヌの食料庫との連絡線が断たれてしまったのです! 食料なしに戦争を続けることは不可能であり、オイゲン公はランドレシーの包囲を解かざるを得ませんでした。
ヴィラールはこの好機を逃さず、7月31日にマルシェンヌ、9月8日にドゥエー、10月4日にル・ケノワを相次いで奪回し、フランスに栄光を取り戻しました。1713年4月に調印されたユトレヒト条約により、フランスはいくつかの譲歩を余儀なくされながらも、ルイ14世の治世に獲得した主要な領土を保持し、ブルボン家のスペイン王位継承も確定しました。デナンの勝利なくしては、ここまで有利な結果は得られなかったでしょう。
さらに詳しく知るために
- ジェラール・ルサージュ『Denain (1712), Louis XIV sauve sa journée』Economica、1992年
- 『Guerres & Histoire』誌 第9号、2012年10月