歴史物語

バルジの戦いとは?ナチス・ドイツ最後の大反攻(1944年12月~1945年1月)

バルジの戦いとは?ナチス・ドイツ最後の大反攻(1944年12月~1945年1月)
バルジの戦いは、1944年12月16日から1945年1月末にかけて行われた、第二次世界大戦末期においてドイツ本土へ進軍する連合軍に対する、ドイツ軍最後の大規模攻勢です。1944年6月のノルマンディー上陸作戦以降、連合軍はフランスを解放しましたが、同年9月にはドイツ国境沿いで進撃を阻止されていました。そして12月16日、連合軍の航空機が飛行できない悪天候に乗じ、ヒトラーはアルデンヌ地方から奇襲反攻を開始したのです。

西部戦線におけるドイツ軍最後の反攻

イギリス・アメリカ両軍によってフランスとベルギーが解放されると、ドイツ軍は1944年の秋までに、ジークフリート線と呼ばれた要塞化された西部国境まで撤退を余儀なくされました。アントウェルペンからスイス国境まで大きく伸びきった連合軍の戦線の綻びを突くべく、ドイツ軍はアルデンヌ地方での強力な反攻を決意します。1940年5月のように敵戦線を一気に突破することを狙ったものでした。

ただしこの作戦は、軍事的状況を完全に逆転させることよりも、連合軍の最終攻勢を遅らせ、ドイツ国が「秘密兵器」(V2ロケットやジェット機などの新兵器)を実戦に投入する時間を稼ぐことに主眼がありました。加えて、西側陣営に混乱を引き起こし、それを外交的打開策(西側との単独講和の可能性も含む)につなげようとする狙いもあったと考えられます。

バルジの戦いとは?ナチス・ドイツ最後の大反攻(1944年12月~1945年1月)
東西両戦線の短縮と年末の地上戦の小康状態により、ヒトラーは約30万人の兵員と2,500輌の戦車からなる予備兵力を編成することに成功しました。彼はこの戦力を、イギリス軍・アメリカ軍に対する最後の攻勢に投入することを決めます。アルデンヌからベルギーを突破してアントウェルペンへ向かうという、1940年に大きな成果を上げた戦略の再現を図ったのです。

アルデンヌ最後の戦い

指揮官にはフォン・ルントシュテット元帥があたり、ドイツ軍は当時投入可能だった最精鋭部隊、すなわち装甲師団9個を含む計28個師団と約1,000機の航空機をこの反攻作戦に投じました。作戦初期、厚い雲に覆われた空模様が連合軍の圧倒的な制空権を弱めたこともあり、ドイツ軍は1944年12月16日、モンシャウ(モントワウ)からトリーアに至る約60kmの正面でアメリカ軍の戦線を突破。12月25日にはムーズ川の約10km手前まで到達します。

戦略的要衝であったバストーニュの町はドイツ軍に包囲され、守備隊を指揮するアメリカ軍のマコーリフ准将のもとに降伏勧告の最後通牒が届きました。しかしマコーリフはこの要求に対し、簡潔に「Nuts!(ふざけるな/馬鹿げている)」とだけ返答。アメリカ兵たちは直ちに市街の防衛態勢を固めました。

バストーニュおよびサン・ヴィトにおけるアメリカ軍の粘り強く英雄的な抵抗と、その後の天候回復による連合軍航空機の活動再開により、12月26日から連合軍の反撃が本格化し、ドイツ軍の突出部(バルジ)の解消が進められていきます。燃料不足に陥ったドイツ軍部隊は撤退を余儀なくされました。

アルデンヌ反攻の失敗により、ドイツは西部戦線で戦略的主導権を握る可能性を完全に失いました。パットン将軍率いるアメリカ第3軍による挟撃による包囲の危機を辛うじて免れたドイツ軍は、翌1月に後退しますが、装備と人員に甚大な損害(約22万人の死傷者)を出し、この損耗は翌春のドイツ敗北につながっていったのです。

参考文献

アントニー・ビーヴァー『アーンデーン1944――ナチス・ドイツ最後の賭け』白水社(文庫版、2017年)

ギヨーム・ピケティ『バルジの戦い:1944年12月16日~1945年1月31日』テクスト社(2015年)