三十年戦争中、リソフチク(リソフスキー部隊)はライン川のほとりまで遠征したという。彼らはネーデルラントの人々に強烈な印象を焼き付け、その一人をレンブラントが描いたのだろうか?それとも、巨匠はこの絵に別の真意を隠していたのだろうか?
ニューヨークのフリック・コレクションに所蔵されるレンブラントの名画「ポーランド騎士」は、1655年頃の制作と考えられている。描かれているのは、リソフチクを思わせる姿の騎兵である。当時すでにこの部隊は存在していなかったが、ポーランド・リトアニア共和国の軽騎兵はよく似た装いをしていた。さらに思い出されるのが、三十年戦争(1618~1648年)で西欧へ遠征し、異質でありながら恐ろしく危険な存在としてヨーロッパに強烈な記憶を残した「ザゴンチャイク」たちである。母親たちは子供を叱りつけるのに、彼らの名を使ったほどだ。バロック期の詩人ユゼフ・バルトウォメイ・ジモロヴィッツはこう記している。「お前たちが恐れられるのは当然、お前たちが恐れられるのは当然/神の奇妙な復讐と呼ぶのももっともなこと」……
黙示録の騎手たち
このポーランドの傭兵たちは、1622年、そして1635~36年(この時期にはすでに共和国のセイムが部隊の解散を命じていたにもかかわらず)にネーデルラントを訪れた。彼らは並外れた大胆さと勇気で名声を得た一方、規律を守らず、略奪や残虐行為に走りやすいとして悪名も高かった。そもそも共和国国内ですら、「なんて悪党め、あのリソフチクは!」という言葉が口ぐせになっていたのである。

ユリウシュ・コッサクの筆によるリソフチクたち……
ネーデルラントにおいても、三十年戦争の他の戦場と同様、彼らは恐れられた。とりわけプロテスタントの間でである。リソフスキー部隊は皇帝側に立って戦っていたからだ(とはいえ、カトリック側を掠奪することもあった)。「数多のルター派信徒を悪魔への生贄とした」――ジモロヴィッツがこう書いたのも無理からぬことであった。1606年生まれのレンブラントは、リソフチクたちが最後に故郷を訪れた際、その姿を目にした可能性がある。
あるいは、ずっと後になってよく似たポーランド騎兵を見かけたのかもしれない。しかし疑問はここからだ。プロテスタント国の住民である彼が、なぜカトリックの兵士を、しかも戯画的な形ではなく描いたのか?両者はそれほど親しくなるはずがなかった。
隠された二重の意味
想像してみると、これは何らかの理由で(たとえ相応の報酬のためであっても)プロテスタント側へ寝返ったポーランド騎士かもしれない。だが、それが絵画の主題になるだろうか?あるいは、自らをリソフチクの姿で描かせたポーランド貴族なのかもしれない(実際、外交官にしてカルヴァン派の活動家、ヴワディスワフ4世の書記官アンジェイ・レイを描いたとされるレンブラントの絵が存在する)。しかし、祖国で「なんて悪党め、あのリソフチクは」と言われていた以上、誰が進んで自らのイメージを汚したがるというのか?

そしてこちらはレンブラントの描いた「リソフチク」。
美術史家ヤン・ビャウォストッキはまったく新しい手がかりを提示した。絵の題名「ポーランド騎士」は、ラテン語では「エクエス・ポロヌス(Eques Polonus)」となる。このペンネームで1654年、アムステルダムである人物が『弁明』と題する著作を出版していた。ヨナシュ・シュリフティング――ポーランド兄弟団、すなわちソチニアニスト(アリアン派)とも呼ばれる宗教改革運動の指導者の一人である。この運動は共和国で次第に憎悪の対象となり(1658年の国外追放へとつながる)、その敵はカトリック派のみならず、カルヴァン派やルター派にも及んだ。しかし西欧の自由主義思想には絶大な影響を与えた。シュリフティングの著作から学んだ人物の中には、あのジョン・ロックもいたのである!
1653年、ネーデルラント連邦議会はポーランド兄弟団の教義の説教を禁止した。シュリフティングはこの措置への応答として、翌年「エクエス・ポロヌス」の名を冠し、寛容と政教分離を説く論文を発表した。ビャウォストッキ教授の仮説によれば、レンブラントの絵に描かれた騎手こそ、このポーランドの自由の擁護者を讃える賛歌なのだという。付け加えれば、「寛容」という言葉をリソフチクたちが知る由もなく、ソチニアニストたちは迫害を受けていた。1623年には、アリアン派の主要拠点の一つラクフがポーランド軍に襲撃されたのである!この対比が、作品にいっそうの妙味を添えることになる……
巨匠の仕掛け
では、なぜレンブラントはポーランド兄弟団に共感を抱いていたのだろうか?彼の宗教的信念については確かなことは分かっていない。宗教改革の時代の子であり、メノナイト派に傾いていたとも言われるが、間違いなくアリアン派の友人も少なからず持っていた。「オランダの宗教学者や美術史家の多くは、宗教とイエスに対する自然主義的な捉え方ゆえに、レンブラントがポーランド兄弟団に同情を寄せていたと考える傾向にある。こうした論壇では『レンブラントはソチニアニストだったのか?』という問いすら提起されている」――アリアン派の歴史家ゼノン・ゴワシェフスキはそう記している。ポーランド兄弟団と同じく、画家は伝統的な三位一体の概念を退け、イエスをきわめて人間らしい姿で描いたのである。

「ダヴィデとヨナタンの別れ」(左)、そしてヨナシュ・シュリフティング本人(右)。
あるいは、この絵の真実はさらに複雑なのかもしれない。「ポーランド騎士」の背景には、巨匠のもう一つの作品「ダヴィデとヨナタンの別れ」(1642年)に登場する建物によく似た構造物が見える。また画面にはサーベル、弓、矢筒があり、ほとんどリソフチクの装備そのものである。旧約聖書の王サウルの息子ヨナタン(父と共に戦死した)は、イスラエルの将来の王となるダヴィデの親友でもあった。もしかすると、この「ヨナタン」こそ後の絵に描かれたリソフチクなのだろうか?だとすれば、一体誰を描いたのか?ヨナタンは――残念ながら――ヨナではあり得ないのだが……
あるいは、1642年のレンブラントの絵のもう一つの題名候補「放蕩息子の帰還」の方がふさわしいのだろうか?だとすれば、「ポーランド騎士」のリソフチクは、長年の放浪の末にすべてを失い、故郷へ帰り着く男なのかもしれない。痩せ衰えて喘ぐ馬の背で――ズィグルスキ教授によれば、その馬は「野営地や街道で仕えた馬の忠実な代表であり、リソフチクとその後継者たちによってしばしば死に至るまで酷使された馬」なのだという。なんと狡猾なレンブラント!彼の意図を一義的に読み解けるよう、私たちに何ひとつ確かな手がかりを残さなかったのだから。
世界史に残るポーランドの未知の足跡については、アダム・ヴェングロフスキ著『あらゆるもののごくポーランド的な歴史』で詳しく読むことができる。