「我々は今、後世の人々が幾世紀にもわたって書き綴ることになる、歴史の転換点となる瞬間を経験している」――1918年11月11日付『ヴィルニス日報(Dziennik Wileński)』の編集部は、こう報じた。そして彼らの予感は見事に的中した。この一世紀のあいだに、ポーランドの独立回復に関する出版物は数千にも上っている。だが、出来事がまさに進行しつつあったその当日、新聞紙上には一体何が書かれていたのだろうか?
ワルシャワの夕刊紙『クルイェル・ヴァルシャフスキ(Kurjer Warszawski)』や朝刊紙『クルイェル・ポランニ(Kurjer Poranny)』の第一面を眺めると、「実は……何も大ごとなぞ起きていない」という奇妙な印象を受けるところである。
後者の朝刊紙は、確かに楽観的すぎるほどの記事を「総司令官(ナチェルニク)」という簡潔な見出しで掲載してはいた。筆者は「驚きと眩暈と喜びに満ちた我々の目の前で繰り広げられる歴史の奇跡」について熱っぽく綴り、ピウスツキの住所まで無造作に読者に披露していた。しかし一面の大部分は、演劇のポスター広告に占められていたのである。
独立の日も娯楽一色
夕刊の『クルイェル・ヴァルシャフスキ』では、ピウスツキへの言及も、ポーランドの独立回復も、第一次世界大戦の終結さえも、探しても見つけることができない。首都の各舞台――キャバレー、フィルハーモニー、劇場、レビュー――の公演広告が、紙面の冒頭を丸ごと埋め尽くしていたからだ。
クルイェル・ヴァルシャフスキ
こうして当時の読者が知り得たのは、ヤスナ通りのポロニア映画館で午後5時から、5幕構成の「センセーショナルな現代劇」『ゴリツィアの飛行士(Lotnik z Gorycji)』が上映されること、ヨゼフィナ・ビエルスカ、ヴィンツェンティ・ラパツキ、マリアン・ドモスワフスキが「黒猫(Czarny Kot)」にゲスト出演すること、そしてJ・ボチコフスキー率いる文学キャバレーが、最新の政治プログラムを題材にしたプレミアショーを上演すること――といった情報ばかりであった。「休戦条件の抜粋」に紙面が割かれたのは、せいぜいその対面ページだけだった。
朝刊においても事情は同じで、これらの歴史的話題は脇へと追いやられていた。ドイツ革命の報道や、薪・石炭の販売、工場建物、冬の果物といった些細な告知に道を譲らねばならなかったのだ。
まあ、ポーランド人は独立だけでは生きてゆけない、ということだろう。とはいえ公平を期すなら、同紙は後に発行した特別号という形で、この手落ちをきちんと償している。
輝かしい未来へ
とはいえ、すべての編集者が共和国の解放を同じように「軽く」扱っていたわけではない。ワルシャワの『ノーヴァ・ガゼタ(Nowa Gazeta)』朝刊は、ポーランド軍事機構(POW)の呼びかけ文を転載し、画期的な出来事を荘重な言葉で伝えていた。
「本日、我々の歴史における新時代の幕開けとなる。」全民族の眼差しは、戦うポーランドの指導者にして、ポーランドの軍事的努力の復興者、国民の力の組織者に注がれている。
過酷な地下活動の日々は終わりを告げた。我々はそれを誇りをもって生き延び、今や、魂の力と両手の労働によって自ら切り拓いてゆくべき、輝かしい未来へと足を踏み入れる。
同紙の編集部は、ピウスツキ釈放の「ほとんどロマンチック」とも言える経緯と、その首都帰還についても多くの紙面を割いた。しかしこの情報がワルシャワ市民にとって決定的に重要なものに思えた一方で、総司令官の凱旋は、大ポーランド(Wielkopolska)地方の人々にはさほど大きな印象を与えなかったようである。
ノーヴァ・ガゼタ
物事を冷静に見る
『ポズナン日報(Dziennik Poznański)』は、この件についてわずか一文の記事を残すにとどまった(「ワルシャワからの報道によれば、ピウスツキは昨日(日曜日)、ワルシャワに帰還した」)。その代わり、ヴィルヘルム2世の退位やドイツにおける革命の経過については、はるかに詳しく伝えている。さらに言えば、総司令官の帰還よりも大きく扱われていたのが……デンブリン~ストシェミェシツェ線で発生し、兵士40名が犠牲となった列車事故であった。
『ヴィルニス日報』の編集部もまた、この問題に「冷ややかに」向き合い、読者へ次のように訴えかけた。「このような状況下で多少の高揚感が生じるのは理解できることであり、誰もそれを不思議に思うことはない。だが他方で、それが我々の常識と、物事に対する冷静な視点を曇らせてはならない。」おそらくこの理念を最も忠実に体現していたのが『モニトル・ポルスキ(Monitor Polski)』だろう。摂政評議会の布告やガリツィアでの戦闘の報告に加えて、ワルシャワで開催される教員養成講座や農業サークル連盟大会の案内まで、しっかりと掲載されていたのである。
モニトル・ポルスキ
さて、独立第二共和国最初期の出版物の実に多彩な内容は、当時の社会を覆っていた混沌を如実に映し出している。ポーランドは世界大戦のまさに中心地に位置しており、情勢は刻々と変化していた。それまで三つの別個の国家体制に分断されていた国土の各地域間の情報伝達はままならず、そもそも123年もの分割支配の時代を経て、自由が現実のものとなったことを、すぐには信じられない人々も少なくなかったのである。
いずれにせよ、多くの庶民にとって1918年11月11日は「いつもと変わらない一日」だった。もちろん彼らも、歴史的な出来事が進行していることは十分に意識していた。だが政治的な激動にかかわらず、人々は普段どおりの生活を続けていたのである。
参考文献:
- 『Dziennik Poznański(ポズナン日報)』第60巻 第260号(1918年11月11日)
- 『Dziennik Wileński(ヴィルニス日報)』第3巻 第261号(1918年11月11日)
- 『Kurjer Poranny(モーニング・クーリエ)』第42巻 第2号(1918年11月11日)
- 『Kurjer Warszawski(ワルシャワ・クーリエ)』第98巻 第312号(1918年11月11日)朝刊・夕刊
- 『Monitor Polski(ポーランド官報)』第1巻 第200号(1918年11月11日)
- 『Nowa Gazeta(ノーヴァ・ガゼタ)』第13巻 第465号(1918年11月11日)