歴史物語

ジェイン・オースティンが見抜いた「メリー・オールド・イングランド」の闇――18〜19世紀、既婚女性の運命

ジェイン・オースティンとその姉カサンドラは、生涯を通じて一度も結婚式の壇上に立つことはなかった。それでも二人は、18世紀から19世紀へと移り変わる時代において、既婚女性の運命がいかなるものだったかを痛いほど理解していた。もしかすると、その知識こそが、オースティンをして小説の結末を「こうして二人は末永く幸せに暮らしました」という幻想的な余韻で締めくくらせたのかもしれない。

1815年12月、出版人ジョン・マレーの手で『エマ』が世に出た。ジェイン・オースティンの第四作、そして生前に刊行された最後の長編である。一見すれば、若い令嬢たちが「ふさわしい相手」を探し求めて奔走し、結婚で幕を閉じる、いつもの軽快な恋愛物語にすぎない。当時の多くの読者は、そのお約束通りの結末を、作者の年齢ゆえの保守性だと受け取った。そもそも、独身の身で何が結婚生活の何たるかを知っているというのか――と。

メリー・オールド・イングランド?

イギリスを代表する作家の一人となったオースティンの創作期は、ジョージアン時代――すなわちハノーヴァー朝の5人の王、ジョージ1世、ジョージ2世、ジョージ3世、ジョージ4世、ウィリアム4世の治世(1714〜1837年)――にあたる。文化や社会、政治や経済のあらゆる面で大変動が起きていた時代である。

同時に、それはいわゆる「メリー・オールド・イングランド(陽気な古き良きイングランド)」の全盛期でもあった。駅馬車が行き交い、広々とした放牧地に緑の生垣が続き、鳥のさえずりが響く――そんな牧歌的な田園風景。紳士たち、戯画のように描かれる大臣たち、そして一日をチェンバロの演奏や絵画、それに「夫探し」に費やす淑女たち。この絵に描いたような世界は、オースティンの小説の読者なら誰もが目にしたことがあるだろう。

ジェイン・オースティンが見抜いた「メリー・オールド・イングランド」の闇――18〜19世紀、既婚女性の運命

淑女たちがチェンバロを奏で、絵を描き、夫候補を探して日を過ごす――オースティンの小説に描かれた、牧歌的なイングランドの風景。

しかしこの牧歌の水面下には、女性の地位と運命をめぐる悲しい真実が沈んでいた。ジェインはそれを、鋭い観察眼とユーモアを武器に、巧みに作品の中へ織り込んでいったのである。そしてその実態は、ハッピーエンドなど望むべくもない、苦い物語だった。

出産に明け暮れる時代

当時のイングランドで、一定の自立を手にできたのは未亡人だけだった。当時の法律のもとで、イギリス女性は土地や不動産を相続できず、常に誰かに従属せざるを得なかった。まずは父に、次いで夫に、そして未婚のままならば兄や弟に。皮肉なことに、結婚そのものが長寿を保証することはなかった。

女性の生理的な営みは、当時の文学にはほとんど映っていない。ところが女性たちの書簡には、しきりにそれが現れる。更年期を迎えた安堵をつづった穏やかな言葉、家族の妊娠の続報を聞くたびにジェインが姉カサンドラ宛ての手紙に記した不安の言葉、そして家族の書簡を繰れば毎年のように名前が並ぶ、出産する女性たちの長いリスト――これらすべてが積み重なり、ジェイン・オースティンの時代の既婚女性の姿という、恐ろしいほどリアルな絵図を浮かび上がらせるのである。

それは身分や富のいかんを問わず、すべての既婚女性に共通する運命だった。妊娠できるうちは、多くの女性が結婚生活の大半を出産に捧げた。シャーロット王妃(ゾフィー・シャルロッテ)もその例に漏れず、ジョージ3世との結婚生活の間に15人の子どもをもうけた。とはいえ彼女は、出産で命を落とさずに済んだという点で、まだ恵まれた方だったと言えるだろう。

ジェイン・オースティンが見抜いた「メリー・オールド・イングランド」の闇――18〜19世紀、既婚女性の運命

シャーロット王妃は、なんと15人の子どもを出産した。

生き延びる権利

幾度にも及ぶ妊娠と難産は、女性の肉体と精神の双方を蝕んだ。啓蒙時代の幕開けとともに、生活環境の改善や医学の発展、避妊に関する知識の普及といった変化が少しずつ現れ始めた。それでも、出産に伴う女性の死亡率は依然として凄まじい水準にあった。ジェイン・オースティン自身がそれを痛感していたのは、義理の姉妹たち――兄弟の妻たち――の大半が産褥期に亡くなり、そのうち二人は11人目の子どもを産んだ直後に命を落としていたからだ。

既婚女性には「絶えざる服従」が求められ、それが多くの女性にとって最後の一撃となった。法学者ウィリアム・ブラックストーン卿はこう述べている。「婚姻において、夫と妻は法の上でただ一人の人間となる。すなわち、妻の存在、その法的存在は、婚姻の期間中、停止されるのである」。要するに、その関係の中で権利を持つのは夫だけであり、婚姻の床の喜びを享受することは、彼の疑いようのない「権利」だったのだ。

18世紀も終わりに近づくと、こうした扱いへの最初の抗議の声が上がり始める。男女の不平等と女性の権利の欠如を公然と訴えた先駆者たちには、『女性の権利の擁護』(1792年)を著したメアリー・ウルストンクラフトや、フランスで女性の権利を説いたオリンペ・ド・グージュらの名が連なる。だが残念ながら、その声は孤立した叫びにとどまり、男性が支配する世界では黙殺された。ド・グージュは1793年、断頭台にその身を捧げている。

ジェイン・オースティンが見抜いた「メリー・オールド・イングランド」の闇――18〜19世紀、既婚女性の運命

姉カサンドラが描いた、現存する唯一のジェイン・オースティンの肖像画。

興味深いことに、性的節制の問題は、男性たちの関心を引くテーマでもあった。もっとも、その動機は女性の健康への思いやりではなく、人口爆発への恐怖だった。その代表格が牧師トマス・ロバート・マルサスである。彼は「多産の問題を、まるで国勢調査係の視点から眺めていた。自国がこれほど急速に増える人口を養い切れるはずがない、と確信していたのだ」。

残念ながらマルサスは少数派だった。だが時が経つにつれ、彼の警告こそが正しかったことが明らかになっていく。続く時代は幾多の危機に見舞われ、そこには過剰な人口増加が決定的な役割を果たした。ヴィクトリア女王の治世(1837〜1901年)には、こうした混乱の結果として、約1500万人もの人々がイギリスから海を渡って移住していったのである。