歴史物語

ヘンリー・モレゾン ― 新しい記憶を生み出せなくなった「患者H.M.」の生涯

記憶を生み出せなくなった男

実験的な外科治療によって、患者H.M.は新しい記憶を作る能力を失いました。しかし、彼の症例は記憶研究の歴史を一変させることになります。いったい彼とは、どんな人物だったのでしょうか。

ヘンリー・モレゾン(Henry Molaison)は幼少期に事故に遭い、その後の人生の多くを病院や療養施設で過ごすことになりました。長年にわたる研究の結果、科学者たちはモレゾンの脳を隅々まで理解するようになり、それとともに記憶喪失のメカニズムをも解明していきました。なぜこのような事態が起きたのか。そして、医学文献ではなぜ男性のイニシャルしか記されていないのでしょうか。

幼少期の事故

7歳の子どもから目を離さずにいるのは、ほぼ不可能です。まして自転車が絡めばなおさらです。ヘンリーの場合、擦り傷だけでは済みませんでした。当時何が起きたのかについては、主に二つの説があります。一つ目は、少年が不運にも転倒し、頭部を負傷したというもの。もう一つは、自転車に乗った人物が子どもに衝突したことが原因だという説です。実際に何が起きたにせよ、この事故がモレゾンの人生全体を左右することになりました。多くの医師は、彼が長年苦しむことになるてんかんの原因を、この事故に求めていました。

病気は徐々に進行しました。幼少期のヘンリーが経験していたのは部分発作で、意識が保たれるのが特徴です。ただし、他の感覚に関する幻覚や錯覚、動きの誤認、デジャヴ(既視感)、言語障害や空間認知の歪みが現れることがあります。発作全体は2分以内で収まり、通常は詳細まで記憶に残ります。

ヘンリー・モレゾン ― 新しい記憶を生み出せなくなった「患者H.M.」の生涯

手術前のヘンリー・モレゾン

しかし時が経つにつれ、てんかんはますます悪化していきました。16歳の誕生日を過ぎると、意識消失、痙攣、制御不能な筋肉の収縮を伴う全般発作が起こるようになったのです。抗けいれん薬のおかげで学校を卒業し、組立ラインでの仕事にも就くことはできました。ところが27歳のとき、病気の進行はあまりに深刻になり、彼は別の治療法を探さざるを得なくなりました。

脳外科手術の影響

モレゾンには選択肢がほとんどありませんでした。当時のてんかん治療法はほとんど成果を挙げていなかったのです。発作の頻度と強度は、若者の日常生活を事実上不可能にしていました。唯一の望みは、ウィリアム・ビーチャー・スコヴィル(Dr. William Beecher Scoville)博士による実験的治療法でした。

当時スコヴィルは、てんかんに対する画期的な治療法を研究中でした。その治療法とは、脳内の発作の起点となる部位を切除するというものでした。それまでの手術も実際にこれを目指したものでした。しかし、スコヴィルの研究には一つの問題がありました。この手法を試された患者はすべて、統合失調症や精神病を患っていたのです。彼らの状態は確かに改善していましたが、意識清明で健常な人にどのような副作用が現れるのかは、依然として謎のままでした。

ヘンリー・モレゾン ― 新しい記憶を生み出せなくなった「患者H.M.」の生涯

唯一の選択肢だったスコヴィル博士の実験的治療法(イメージ写真)

モレゾンはリスクを取る決断を下しました。本人と家族の双方が手術に同意しました。1953年9月1日、ハートフォード病院で神経外科医は長さ8cmに及ぶ脳組織を切除しました。切除されたのは海馬、そして扁桃体と嗅内皮質の一部です。これらの領域に共通するものは何でしょうか。今日私たちが知っているように、それぞれが人間の記憶に何らかの形で関わっているのです。

スコヴィル博士が開発した手法は、今日でも使われています。しかし70年近く前のそれは、暗闇の中を手探りで進むようなものでした。現在の技術なら、比較にならないほど精密なレーザー手術が可能です。さらに当時の医師たちは、脳のどの部分が何を担っているのかを完全には把握しておらず、記憶の仕組みは謎に包まれていました。

失われた記憶

治療は、最低限の目的は達成しました。てんかん発作の回数は大幅に減少したのです。しかし残念ながら、良い面はそこまででした。回復したモレゾンは、手術前の約2年間の出来事をほとんど思い出せなくなっていました。記憶の空白の一部は、11年前にまで及んでいたといいます。一方、子ども時代に経験したことはすべてそのまま残っていました。現在では、この記憶喪失は発作の頻度やさまざまな抗けいれん薬の組み合わせにも関係していた可能性があると考える研究者もいます。

ヘンリー・モレゾン ― 新しい記憶を生み出せなくなった「患者H.M.」の生涯

切除されたのは海馬、そして扁桃体と嗅内皮質の一部でした。

モレゾンは新しい記憶を作ることもできなくなりました。これは間違いなく手術の結果です。彼にとって、来る日も来る日は「初めて」の経験でした。本人はこの感覚を「眠りから絶えず目覚め続けているようなもの」と表現しています。具体的にはどういうことだったのでしょうか。医師や看護師は毎日彼に自己紹介しなければなりませんでした。新聞を読んで数分後には、また最初から読み直す必要がありました。さらに、写真に写る自分自身を認識するのも苦手で、自分の顔が目に見えて老いていくことに気づかないほどだったのです。

謎めいた「患者H.M.」

彼は余生を療養施設で過ごしました。その後数十年にわたり、さまざまなテストや研究の対象となりました。彼と家族を襲った悲劇は、科学にとって真のブレークスルーとなったのです。彼は、術後に重大な記憶障害を抱えた初めての非精神病性患者でした。医療記録や論文では「患者H.M.」として記載されました。なぜでしょうか。第一の理由は個人情報の保護です。彼の症例はすぐに科学論文の題材となり、実名の使用は問題視されました。モレゾン自身、同意したことさえ覚えていないだろうからです。彼の詳細な情報が公開されたのは、死後のことでした。

彼の身に正確には何が起きていたのでしょうか。それを理解するには、顕在記憶(宣言的記憶)と潜在記憶(手続き記憶)を区別する必要があります。前者は事実に関する知識を、後者は習得した技能に関わります。驚くべきことに、H.M.は前日に何をしていたかを語ることができない一方で、新しい作業は問題なく習得できました。手続き記憶は正常に機能していたのです。知能検査などで測られる一般的な精神能力も、変化しませんでした。

顕在記憶を失った人生

患者H.M.と関わった人々は、彼を礼儀正しく、どこか困惑した様子の人物だと描写しています。彼はほぼあらゆる場面で、時間の中で自分を見失わないための手がかりとなる参照点を探していました。クロスワードパズルはその助けになったかもしれません。彼はクロスワードを好んで解いていましたが、手術以前の知識に基づく問題であれば、かなりうまくこなせていました。新しい事実を記憶することはできても、それはごく大雑把な形で、細部は伴いませんでした。しかも、以前から知っていた事柄と何らかの関連がある場合に限られました。

やり方を学ぶことには問題ありませんでした。それを調べるテストの一つが、点をつないで星形を描く課題でした。この課題は、図が鏡像でしか見えないことで格段に難しくなっていました。試行を重ねるごとにモレゾンの成績は向上していきましたが、本人にとっては常に初めての挑戦のように感じられたのです。

ヘンリー・モレゾン ― 新しい記憶を生み出せなくなった「患者H.M.」の生涯

一人の男性とその家族の個人的な悲劇は、科学のブレークスルーとなりました。(イメージ写真)

一人の人間とその家族の個人的な悲劇は、科学にとっての大きな飛躍となりました。特にスザンヌ・コーキン(Suzanne Corkin)は、モレゾンの死去まで数十年にわたって彼の脳機能を研究し続けました。患者H.M.の症例は、脳の異なる領域が異なる種類の記なる種類の記憶を担っていることを裏付けました。彼との研究は、アルツハイマー病の研究、学習方法の開発、失われた記憶の回復といった、その後の研究の基礎となっています。

ヘンリー・モレゾンは2008年に亡くなりました。彼が遺したのは、数百ページに及ぶ科学報告書と脳スキャン画像。そして……コーキンが研究目的のために摘出し保存した、あの臓器そのものです。