歴史物語

犠牲者は5万人。モンゴメリー将軍が挫折したカーンの戦い

1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦の最初の瞬間から、カーンはフランス解放への道における戦略的要衝だった。しかし連合軍にとって不幸なことに、この都市への攻撃を指揮したのは第21軍集団司令官バーナード・ロー・モンゴメリー中将である。誇り高く、常に自分が正しいと信じ、そして……絶望的なまでに無能な男だった。

モンゴメリー(通称モンティ)の確信によれば、カーンは上陸初日、すなわち1944年6月6日に陥落するはずだった。この任務を担ったのはイギリス第3歩兵師団(隊列にはポーランド人兵士も含まれていた)で、同師団は午前7時30分にコードネーム「ソード」と呼ばれるビーチに上陸した。

ドイツ軍の増援を遅らせる戦略の一環として、6月5日から6日の夜にかけて、カーン市はイギリス空軍(RAF)による爆撃を受けた。約2,500トンの爆弾が投下され、800人以上が命を落とし、街は瓦礫の海と化した。

犠牲者は5万人。モンゴメリー将軍が挫折したカーンの戦い

6月5日夜から6日未明の絨毯爆撃により、カーンはほぼ完全に破壊された。連合軍が市内に進入した後に撮影されたこの写真は、被害の甚大さを如実に物語っている。

良い、悪い始まり

これはモンゴメリー自身の要請で実施された、爆撃機軍団による驚くべき戦術判断だった。彼は遅くとも翌日の夕方までにカーンを占領したかったのである。しかし、爆撃が残した廃墟は、かえって市の攻略を困難にした。連合軍はこれを認識しているはずだった。例えばスターリングラードの戦いの歴史を知らないはずがない。だが、モンティは自分の方がよく分かっていると思い込んでいたのだ。

犠牲者は5万人。モンゴメリー将軍が挫折したカーンの戦い

カーンへの度重なる空爆を行うイギリス空軍のハリファックス爆撃機。1944年7月。

当初は順調に見えた。第3師団は上陸作戦に参加した連合軍部隊の中で最も早くビーチを確保した。しかしそれは「良い悪い始まり」にすぎなかった。イギリス兵はドイツ軍の海岸要塞に対処できなかったのである。

最も厄介だったのが、上陸地点近くのペリエの丘に築かれ、「ヒルマン」「モリス」の名を持つ105mm砲を備えた鉄筋コンクリート製掩体群だった。問題の主因は、モンティと第2軍司令官マイルズ・デンプシー大将の決定にある。

彼らはこうした状況を計画に織り込んでおらず、第3師団の下部部隊にチャーチルAVRE戦車(まさにこの種の任務のために設計された車両)を装備させていなかった。その結果、攻撃は大幅に遅れ、武装親衛隊第12装甲師団「ヒトラーユーゲント」をはじめとするSS装甲師団が戦闘に投入されると、完全に足止めされてしまった。

モンティの「さらに優れた」新計画

数日後には、カーンへの正面攻撃が何の成果も上げていないことが明らかになった。連合国遠征軍最高司令部で面子を失わないため、モンゴメリーは攻撃構想の見直しを余儀なくされた。

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ティリー=シュル=スールへ向かうシャーマン戦車とクロムウェル巡航戦車。1944年6月13日。

彼は6月10日、ポール=アン=ベッサン近郊でアメリカ第1軍司令官オマール・ブラッドレー大将に新計画を提示した。今回は正面攻撃に代えて、大胆な迂回機動が採用されたのである。

二重包囲を担うのは、チャーチル首相のお気に入りでもある2個師団、すなわち第7装甲師団(有名な「デザート・ラッツ」)と第51歩兵師団(ハイランド)だった。両部隊はいずれもイギリス第8軍に所属し、モンティの指揮下でエル・アラメインの戦いからシチリア、アペニン半島へと転戦してきた歴戦の精鋭である。

計画では、第4装甲旅団の兵力で強化された第51師団が包囲の左翼となり、カルピケット飛行場の奪取を任務とした。一方、右側面から攻める第7師団は、ティリー=シュル=スール周辺から攻撃を開始し、コーモンを経由してエヴレシー村へ向かうことになっていた。

作戦全体で最も意外性のある要素は、イギリス陸軍の絶対的予備兵力である第1空挺師団による降下だった。ドイツ軍の深い後方、エヴレシー付近への着地が想定され、カーン南方への投下は白昼に行われる予定だった。これは前例のない試みである。

犠牲者は5万人。モンゴメリー将軍が挫折したカーンの戦い

モンゴメリーの「華麗な計画」のもと、イギリス第1空挺師団の兵士たちは一歩間違えれば弾除けにされるところだった。

この種の作戦の大半は、ドイツ軍の対空砲火を恐れて夜間に行われてきた。他の連合軍部隊の任務は、重対戦車兵器を持たず敵の包囲網の中に取り残される落下傘部隊へ、可能な限り迅速に到達することになるはずだった。

物議を醸すこの計画には、当時連合国遠征軍の航空部隊を指揮していたサー・トラフォード・リー=マロリーをはじめ、多くの連合軍指揮官が反対した。

彼は昼間の輸送機が、カーンとエヴレシー周辺に配備された強力なドイツ対空砲によって虐殺されると主張した。同時に夜間の作戦も不可能だと判断した。夜間の場合、輸送機は侵攻艦隊の上空を通過しなければならないが、艦隊は夜のルフトヴァッフェ(ドイツ空軍)の空襲を警戒して射撃を完全に停止することを拒否していたからだ。

結局、「臆病な愚か者」(モンティがリー=マロリーに付けたあだ名)の反対を受け、ドワイト・アイゼンハワーは空挺降下を取り消した。事態の展開が示すように、これは極めて正しい決断だった。

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カーンを巡る戦闘でドイツ軍の狙撃兵を捜索するカナダ兵。1944年7月。

折れた、シェルブールへの鍵

計画の骨子は、第1空挺師団の参加が取り消された後でも、参謀本部の地図の上では非常に美しく見えた。だが現実はまったく違っていた。6月11日の開始早々から、作戦はつまずき始めたのである。

北アフリカの広大な空間での戦闘に慣れ切っていた第51師団は、ノルマンディーのボカージュ(生垣地帯)ではまったく歯が立たなかった。ここでの日々の戦闘は、短くて非常に激しい遭遇戦と、突然の砲撃・迫撃砲射撃の組み合わせだった。ブラックウォッチの兵士たちはあまりの衝撃に、ほとんど前進できなかった。

犠牲者は5万人。モンゴメリー将軍が挫折したカーンの戦い

西側では6月12日にデザート・ラッツが行動を開始した。当初、彼らの攻撃は計画通りに進み、途中リヴリーやトレイシー=ボカージュを占領しながら、最終的にヴィレール=ボカージュと、その町を見下ろす重要な213高地を確保した。

しかし攻撃の初期段階で、第7師団長は重大な過ちを犯していた。師団随一の偵察部隊である第11軽騎兵連隊を、先鋒を務める第22旅団の側面に配置してしまったのである。

この措置のため、6月13日にヴィレール=ボカージュを占領した第22旅団は、近くの森に潜むミヒャエル・ヴィットマンSS中尉率いる第101重戦車大隊の存在を知る由もなかった。

その結果、第22旅団は伝説的な「アルマゲドン」に見舞われ、21両の装甲車両を失い、6月14日までにコーモンまで撤退せざるを得なくなった。

カーンの戦いそのものは7月19日まで終わらなかった。モンゴメリーが約束した時期より、ほぼ1ヶ月半も遅れていたのである。さらに言えば、後の元帥によるこの「華麗な」計画の実行は、連合軍に死傷者5万人という多大な代償をもたらした。

犠牲者は5万人。モンゴメリー将軍が挫折したカーンの戦い

瓦礫と化したカーンに残る王立工兵隊の兵士たち。1944年7月。

誤った教訓

さらに悪いことに、作戦の敗北後、モンゴメリーだけでなく連合軍指導部の大多数も、そこから建設的な教訓を引き出そうとしなかった。作戦全体の欠陥は、敵陣深くに投下される空挺部隊の運用は、地上部隊による迅速で効率的な支援なしには成功しないことを明白に証明していたはずだ。

最悪なのは、モンティがこの戦術を近いうちに、はるかに大規模な、あえて言えば壊滅的な規模で再試行したことである。1944年9月、オランダでのことだった。もしリー=マロリーの明確な反対がなければ、この攻勢はマーケット・ガーデン作戦と同じ末路を辿っていたかもしれない。つまり「90%の勝利」というやつだ。