歴史物語

大嵐が倒したオリュンピオンの柱――1852年アテネ、予言と「柱の時代」

1852年10月中旬、アテネを未曾有の大嵐が襲った。その激しさは川を氾濫させ、橋を流し去り、町を二つに分断するほどだった。噂は口伝えに広まり、住民の間に恐怖が走った。これは一体、いつどこで起きたことなのか。答えは1852年、オットー王治世下のアテネである。

現在のスタディオウ通りは「深い谷」だった

氾濫した川とは、現在のスタディオウ通りの位置に流れていた小川である。アルサケイオン付近には、急流に流される橋が架かっていた。オットー王の治世初期、スタディオウ通りは深い渓谷にすぎなかった。リカヴィトスの丘から流れ出る小川「ヴォイドプニクティス」は二つに分かれ、一方はデモクリトゥ通りを、もう一方はアカデミアス通りをアルサケイオン方面へと流れていたのである。

アルサケイオン前の小さな橋

当時、アルサケイオン(女子学校)はまだ完成しておらず、一部の授業は建物の完成した区画に移されていた。生徒の大半は旧市街(プラカ、モナスティラキ、プシリ)に住み、一部は大学の裏手に形成されつつあった新しい学生街ネアポリスに住んでいた。彼女たちは通学のために、そしてアテネ市民のほとんどは通勤のために、この小さな橋を利用していたのだ。

ピレウスを直撃した暴風

西ギリシャから来た激しい擾乱と悪天候の前線は、強い南風を伴ってまずピレウスを直撃した。木々は根こそぎ倒され、市内の街灯はすべて破壊され、港も甚大な被害を受けた。その夜のピレウスでは、フランスの蒸気船が岸へ漂着し、ギリシャの蒸気船「ルドヴィコス号」が沈没した。さらに小麦をそれぞれ15,000キロ積んだ2隻の船も沈み、小麦が海面に浮かび上がって、港内の海面全体を覆いつくしたという。

大嵐が倒したオリュンピオンの柱――1852年アテネ、予言と「柱の時代」

倒れたオリュンピオンの柱

惨禍が重なったのは10月14日から15日にかけての夜であった(新暦では10月27日に相当する)。市の中心部にあるオリュンピア・ゼウス神殿で、他の柱から離れて立っていた3本の柱のうちの1本が倒れたのである。この出来事はアテネの人々にとってあまりにも重大で、その後数十年にわたり、人々がその時代を言い表すときに「柱の時代」と呼ぶほどだった。

フィンランドの学者ヴィルヘルム・ラグスは日記にこう記している。「すべてがガタガタと鳴り、奥まった私たちの部屋の中まで揺れた。風は煙突を揺さぶり、窓は割れ、恐ろしい嵐は一晩中その全ての力で荒れ狂った」。

エレクテイオンの柱2本も同時に倒れた。歴史家ゲオルギオス・ツォコプロスの記すところによれば、アテネ市民はこぞってオリュンピオンへ赴き、この不吉な出来事を嘆き悲しんだという。実際、その後の日々、倒れた柱を元に戻すべきかどうかという議論が持ち上がった。アマリア王妃は考古局に最善の策を尋ねたが、考古学者のピッタキスとラガヴィスは「立てない方がよい」との見解を示し、王妃もそれ以上は主張しなかった。

同じ日に生まれた男――カンブログロウ

この出来事は、まさにその日に生まれたある人物の誕生とも結びつけられた。革命の闘士リガス・パラミディスの家(アカデミアス通り)で、後に著名な歴史家となるディミトリオス・グリゴリス・カンブログロウが生まれたのである。しかもその部屋は、4年前の1848年にマニア地方の指導者ペトロベイス・マヴロミハリスが息を引き取った部屋と同じだった。

カンブログロウの正確な出生日には異説もあるが、本人は自分が別の日に生まれた可能性など一度も考えようとしなかった。それほどまでに、自分の誕生と柱倒壊との「縁」を信じていたのだ。自伝『長い生涯の回想』の中で彼は愉快そうにこう語っている。「すべてがあの日に始まったのだから、私の誕生日もあの日に始まったらしい。だから私は、たとえ望んでも自分の年齢を隠せない、数少ない人間の一人なのだ」。

親友の詩人ゲオルギオス・ドロシニスは、カンブログロウの80歳の誕生日に際し、雑誌『ネア・エスティア』(1932年11月1日号、第141号)に次の詩句を寄せている。

「あなたが生まれた日/柱は倒れた。
その跡にあなたは立つ/百年まで届け!」

カンブログロウ自身は『回想録』の中でこう述べている。「確かなのはこれだけだ。あの『倒れた柱』を訪れ、今も訪れる人は数多いのに、私にだけは何か囁いてくるということ。だから私はしょっちゅう彼女を訪ねに行くのだ」。

大嵐が倒したオリュンピオンの柱――1852年アテネ、予言と「柱の時代」

柱の上で暮らした修行者たち

柱の倒壊は、古代記念碑の損壊そのものへの悲しみだけでなく、恐怖をも呼び起こした。当時のアテネ人が皆信じていた「預言」があったからだ。かつて一人の修道士(カログェロス)が長年、柱の上で暮らす「スティリテス(柱頭行者)」として過ごし、「もし柱の一つでも倒れれば、この町に大きな災いが降りかかるだろう」と広めていたという。

聖シメオン・スティリテスの生涯に倣ったこの空中の苦行僧は、「丸20年間、ただの一度も降りなかった」。1786年にイギリスの作家エリザベス・クレイヴンが聞いた話では、修行者は朝夕2回、綱で結んだ籠だけを上下させていた。信心深い信徒たちはその籠に好みの食料を入れ、修行者はそのわずかな品々で生き延びたのである。

フランスの旅行家ルイ・ジャック・ラクールの報告によれば、その隠者は東側正面の第5・第6柱の柱廊で18年間暮らした。ラクールによれば、修行者は巻き上げ機を使って週ごとの糧食を受け取り、6年間連続して一度も降りずに済ませたという。こうしたスティリテスはオスマン時代の終わりまで幾世代にもわたって続き、その信仰はキリスト教徒にとどまらず、イスラム教徒にも及んでいた。

予言の的中か――司祭たちの祈り

翌日、倒れた柱を目にしたアテネの人々は、あの予言を思い出して戦慄した。司祭たちが倒壊現場に招かれ、嘆願の祈りが捧げられたのである。

1854年――コレラとフランス軍の占領

わずか2年後の1854年夏、ピレウスがフランス軍に占領されるとともにコレラの最初の犠牲者が現れると、人々は一斉に「倒れた柱の予言」を思い出した。柱の倒壊によって勢いづいた災厄は、全勢力をもって押し寄せたのだ。やがて歳月が流れ、フランス軍がピレウスを去り、コレラが奪えるものを奪い尽くした後、1874年に詩人ヴァラオリティスはこう書き残した。

「計り知れない、神の怒り、神の憤り、呪い。
常に予期せぬ雷鳴、地震、嵐があり、
我らは地に倒れ伏す、高くそびえ、目に見え、大ききものは
互いに倒れ合って」

議会での珍議論――「ならばパルテノンも埋めよ」

しかし、倒れた柱に帰されたこれらの災厄の前に、忘れてならない逸話がある。柱倒壊の翌年、1853年1月13日のギリシャ議会において、激しい論争の末、オリュンピオンの柱を再建する目的で考古局に5,000ドラクマの基金が設けられることになったのである。

ところが一部の議員は「柱は倒れたままにしておくべきだ。地面に横たわっていれば、その建築構造をよりよく観察でき、いっそう賞賛できる」と主張した。すると議場の誰かがこう切り返したという。「それでは賢明なるアテネの諸君よ、我らの祖先の作品を間近に賞賛するために、パルテノンをも埋めてしまわねばなるまいな」。

大嵐が倒したオリュンピオンの柱――1852年アテネ、予言と「柱の時代」

今日も横たわり続ける大理石の柱

そして事実、あの大理石の柱は今日まで倒れたまま横たわり続けている。まるで、現代の我々ギリシャ人がこの古代の建造物をよりよく観察できるように、と言わんばかりに……。