紀元前323年6月、アレクサンダー大王はバビロンにおいて、わずか32歳という若さでこの世を去りました。世界帝国を築き上げた征服王の突然の死でしたが、その死因については確定的な答えが存在せず、複数の記録や学説が対立したまま今日に至っています。
毒殺説――宮廷内部の陰謀か
最も古くから語られてきたのが「毒殺説」です。古代ギリシャの歴史家ディオドロス(シケリアのディオドロス)の記録によれば、大王はマケドニアの摂政アンティパトロスによって毒殺されたとされます。
当時のアンティパトロスは、大王の母オリュンピアスとの対立を通じて王の不興を買うことを恐れていたとされ、息子たち(カッサンドロスとイオラオス)を通じて毒入りの酒を献上したと伝えられています。特にイオラオスは大王の注酒係を務めていたため、この説には一定の説得力があります。毒の正体としては、ストリキニーネやヘレボルスといった有毒物質が挙げられてきました。
熱病説――12日間にわたる高熱の記録
もうひとつの有力なのが「熱病死」説です。古代ローマの歴史家クルティウス・ルフスの記述では、大王はユーフラテス川の冷たい水に入った後、発熱を起こして病の床についたとされています。また、側近プトレマイオスやアリストブロスの記録をもとに編纂された「王の日誌」には、約12日間にわたって症状が悪化していった経過が残されており、感染症による熱病の進行として自然に読み取ることができます。
現代医学の観点からは、腸チフス、マラリア、ウェストナイル熱などの感染症が死因の候補として挙げられています。
複合要因説――疲弊しきった身体への重圧
さらに一部の歴史家は、毒・熱病・過労といった複数の要因が重なった結果だと考えています。10年以上にわたる遠征で幾度も重傷を負い、心身ともに消耗しきっていた大王の身体は、もはや熱病や毒の影響に耐えうる状態ではなかったという見方です。死の直前に開かれた大宴での過度の飲酒も、体力の低下に拍車をかけた可能性があります。
結論――永>結論――永遠に解けない謎
こうして各説を見てみると、いずれにも根拠がある一方で、決定的な証拠は存在しないことが分かります。一説には、死後数日間にわたり遺体が腐敗しなかったと伝えられ、これを毒物の痕跡とする論者もいますが、実際には死の直前から深い昏睡状態にあったためだという反論もあります。
結局のところ、アレクサンダー大王がどのように死を迎えたのかは、今なお解明されていません。古代史料の断片と現代の医学的推測を突き合わせても確定的な答えは導き出せておらず、おそらく今後も完全な解明は難しいでしょう。それこそが、2300年以上の時を経た今も、この謎が人々の想像力を掻き立ててやまない理由なのです。