歴史物語

耐え難き諸法はいつ成立したのか?1774年の報復立法とその影響

耐え難き諸法(強制諸法)とは?

耐え難き諸法(Intolerable Acts)は、「強制諸法(Coercive Acts)」とも呼ばれる、1773年のボストン茶会事件に対する報復として、1774年にイギリス議会で可決された一連の法律です。その目的は、マサチューセッツの植民地人を懲らしめるとともに、北米植民地に対するイギリスの支配権を改めて確立することにありました。

耐え難き諸法を構成する主な法律

1. ボストン港閉鎖法(Boston Port Bill)

ボストン茶会事件で破壊された茶葉の代金が支払われるまで、ボストン港を閉鎖するという法律です。ボストンの経済は海運業に大きく依存していたため、この措置は植民地人に深刻な打撃を与えました。

2. マサチューセッツ統治法(Massachusetts Government Act)

マサチューセッツ植民地の憲章を改正し、イギリスから派遣される総督の権限を大幅に強化する一方、植民地議会の権限を縮小しました。これにより、植民地人の自治権は大きく制限されることになりました。

3. 司法行政法(Administration of Justice Act)

植民地で罪に問われたイギリスの官吏について、植民地内ではなくイギリス本国で裁判を行うことを認めた法律です。「公正な裁判を受けられないのではないか」という植民地人の不安と反発を強めました。

4. 宿営法(Quartering Act)

植民地人に対し、イギリス軍の兵士に食事や宿舎を提供することを義務付けました。自宅に兵士を住まわせる負担を強いられることへの不満は大きく、後のアメリカ合衆国憲法修正第3条の背景にもなっています。

5. ケベック法(Quebec Act)

ケベック州の領域を拡大するとともに、カナダにおけるカトリック教会を法的に承認しました。厳密には懲罰を目的とした法律ではありませんでしたが、西部の土地への進出を望んでいた植民地人は、これも抑圧策の一環であると受け止めました。

植民地の反応とアメリカ独立戦争への道

耐え難き諸法は、植民地全体に激しい怒りと抗議をもたらしました。他の植民地はマサチューセッツとの連帯を示すために物資支援を行い、1774年9月にはフィラデルフィアで第一回大陸会議が開催され、イギリス製品のボイコットなどの対抗策が決定されました。

こうした抵抗の動きは植民地人の結束を一層固めることとなり、ついに1775年、レキシントン・コンコードの戦いが勃発。ここからアメリカ独立戦争が始まることになったのです。