歴史物語

ボストン虐殺事件(1770年)に対するイギリス議会の反応とは?

1770年3月5日、マサチューセッツ湾植民地のボストンで発生した「ボストン虐「ボストン虐殺事件」は、駐留イギリス兵が市民の群衆に発砲し、5名が死亡した事件です。当時、北米十三植民地は依然としてイギリス議会の統治下にあったため、この事件は本国政治にも大きな影響を与えました。ここでは、イギリス議会がどのように対応したのかを解説します。

事件の背景

1767年に成立したタウンゼンド諸法による課税に対し、植民地側は強く反発し、ボイコット運動が広がっていました。ボストンでは住民とイギリス兵の緊張が日増しに高まっており、事件当日も街頭で口論や小競り合いが発生。混乱の中で兵士たちが発砲し、市民5名が命を落としました。この事件は後にポール・リビアの版画などを通じて宣伝材料となり、反英感情を大きく煽ることになります。

イギリス議会の対応

事件を受け、ノース卿率いるイギリス政府は植民地情勢の悪化を重視し、1770年4月にタウンゼンド諸法による関税の大部分を撤廃しました。これは、貿易の停滞や植民地の不買運動への配慮による譲歩でした。ただし、議会が植民地に課税権を持つという原則を示す象徴として、茶に対する課税のみは維持されました。この残留した茶税こそが、後の「ボストン茶会事件」(1773年)へとつながる伏線となります。

現地での裁判

一方、事件の当事者であるトマス・プレストン大尉とイギリス兵8名は、殺人罪で裁判にかけられました。弁護を担当したのは、後にアメリカ合衆国第2代大統領となるジョン・アダムズです。彼は公正な裁判の重要性を信じ、あえてイギリス兵の弁護を引き受けました。その結果、兵士の大半は無罪となり、2名のみが過失致死罪で有罪(親指の烙印刑)という判決が下されました。

歴史的意義

イギリス議会による関税撤廃は一時的に緊張を和らげましたが、茶税の維持やその後の強硬な政策により、本国と植民地の対立はむしろ深刻化していきました。ボストン虐殺事件は「愛国者」側のプロパガンダとして記憶され、独立運動の重要な転換点の一つとなりました。最終的に対立は武力衝突へと発展し、1775年にアメリカ独立戦争が勃発、1783年のパリ条約で十三植民地は独立を達成します。