戦国武将「林通勝(はやしみちかつ)」の名を正しく知っている人は、かなりの戦国好きだと言えるでしょう。
林秀貞は、織田信秀が嫡男・信長のために付けた四人の宿老の筆頭格で、幼い信長の最初の「傅役(もりやく)」、いわば信長初の保育士とも呼ぶべき存在でした。

信長を見限った傅役
美濃の「蝮(まむし)」こと斎藤道三が、一度会っただけで信長の才能を見抜き、「わが子孫は、門前に馬をつなぐ存在になるだろう」と語ったのは有名な逸話です。道三ほどの人物ですら信長の素質を見抜いたのに、皮肉なことに、最も近くで仕えた林はそうではありませんでした。
林は信長の傅役でありながら、主君を見限り、弟・織田信行(信勝)のもとへ走ります。同じく宿老の柴田勝家とともに、です。
背景には、「大うつけ」と呼ばれた信長の奇行に加え、父・信秀の葬儀で抹香を投げつけた事件がありました。次席の宿老・平手政秀はこの件に関連して自害しており、冠婚葬祭を重んじる当時の日本人からすれば、信長が敬遠されたのはある意味当然だったのかもしれません。
それでも信長は嫡男として家督を継ぎますが、織田家の家臣団は信長派と信行派に真っ二つに割れます。その結果、兄弟の争いは骨肉の戦いへと発展し、両軍は弘治2年(1556年)の稲生の戦いで激突。ご存じのとおり、結果は信長の圧勝でした。
信長は日本史上屈指の人物だけに、味方であっても無能な者は容赦なく切り捨て、敵であっても有能な者は積極的に登用しました。柴田勝家も林も、許しを得て再び信長に仕えることを許されています。このとき、林はどのような思いを抱いたのでしょうか。
織田家の政務を支える筆頭宿老
その後、林は織田家の政務において重要な役割を担います。足利義昭と信長の関係が悪化した際には、義昭側近宛ての問罪状に名を連ね、清洲同盟をはじめとする重要文書にも、ほぼ必ず林の名が記されています。
地味ではあっても、確かな力量で「信長」という人物を支え続けた人生だったと言えるでしょう。
裏切りの代償――25年後の突然の追放
ところが天正8年(1580年)、稲生の戦いから約25年後のある日、信長は突然、林を追放します。
追放の理由は、あの25年前の裏切りでした。
なぜ25年もの歳月を置いてから処罰に踏み切ったのかは、信長にしか分かりません。ただ、家臣団が大きく成長した信長陣営には、もはや林の存在が不可欠ではなくなったと考えたのかもしれません。
信長は基本的に、自分に刃を向けた者を許さない人物です。草創期の人材不足の時代には我慢して使い続けましたが、天下統一が現実味を帯びるにつれ、もはや我慢できなかったのでしょう。
ここにこそ、織田信長とローマの英雄カエサルの違いがあります。カエサルは自分に剣を向けてきた者であっても基本的に許し、後々まで恨むようなことはありません。しかし、そのように許した者たちの手によって、暗殺されてしまうのです……。
林の追放は、織田家の家臣たちに大きな衝撃と恐怖を与えたようで、この一件が明智光秀の本能寺の変にも影響を及ぼしたとも言われています。
些細な失敗すら許されない信長のもとでは、安息の日々は訪れません。もし本当に天下を取っていたら、日本は恐怖に震えていたかもしれないのです。
ちなみに、「林通勝」という通称は長く使われてきましたが、近年の研究では実名は「林秀貞」とされています。晩年の追放は気の毒ですが、信長に背きながらも命までは取られずに済んだ――その意味では、幸運だったのかもしれません。