保元の乱の戦後処理を中心に、そこから平治の乱へ至る流れを見ていきます。
鍵となるのは、保元の乱で参謀のような役割を果たした信西(しんぜい)という人物です。信西は後白河天皇とともに、乱の後に続く体制づくりを行いました。信西という人物と保元の乱の戦後処理を知ることで、平治の乱までの時代の流れをつかむことができます。
信西とはどのような人物か?
信西は、奈良時代の藤原武智麻呂を祖とする藤原南家の出身です。
もともと学者の家系でしたが、幼くして父を亡くし、母方の親族にあたる高階家に引き取られて育ちました。
高階家の縁故で朝廷に出仕すると、優れた頭脳を武器に鳥羽院政のもとで頭角を現していきます。
その後、次女が雅仁親王(後の後白河天皇)の乳母となったことがきっかけで、政治の中心人物へと転身しました。雅仁親王の即位には、信西の働きかけがあったとも推測されています。
保元の乱で後白河天皇側が勝利を収めると、当然ながら信西はますます重用されることになります。
保元の乱の戦後処理はどのように行われたのか?
保元の乱で敗れ、反逆者として問われた崇徳上皇は、讃岐国(現在の香川県)へ配流されました。そして上皇以外の敗者たちへの処分も、法にのっとりながらも非常に厳しいものでした。
この処分案を検討したのもまた信西です。彼は薬子の変以来約350年間行われてこなかった死刑を復活させ、反対勢力の一掃を実行に移しました。
保元の乱は、兄弟や親子、叔父と甥といった血縁者が敵味方に分かれて争う凄惨な内乱でした。
死刑復活後、最初に処刑されたのは、崇徳上皇側についた平忠正です。その首を斬ったのは、忠正の甥にあたる平清盛でした。また源義朝も、自らの父である源為義を斬っています。
親子の情も親族の縁も、保元の乱の前には無力でした。義朝は減刑を嘆願したものの、聞き入れられることはありませんでした。
新体制「保元新制」とは?
大きな戦乱(政治的な意味での戦い)のあとには、新たな体制を整える必要があります。そのために打ち出されたのが、保元新制と呼ばれる七箇条の宣旨でした。主な内容は荘園整理と寺社への厳しい規制です。
宣旨では、新たな荘園の設立には天皇の許可が絶対的に必要とされました。天皇の権威を盤石なものにしようという意図が読み取れます。ただし、既存の荘園まですべて取り潰すことはできません。白河院・鳥羽院のもと院庁を通じて認められた荘園(院近臣の荘園)はそのまま残されました。この徹底ぶりは、記録荘園券理所の設置からもうかがい知れます。
※白河院・鳥羽院の院近臣の荘園が温存された=摂関家の弱体化を意味します。
ここで覚えておきたいのが、源氏への荘園寄進の禁止です。11世紀の中頃から後半にかけて勃発した前九年の役や後三年の役を経て、源氏は東国において強い存在感を示すようになっていました。ところが朝廷は、源氏への荘園寄進を禁じたのです。
この寄進禁止の背景には、白河院政のころから源氏を抑え込む動きがあり、代わりに伊勢平氏を重用する流れがあったことも関係しています。つまり、院政のもとで重用されてきた平氏の荘園は比較的温存された一方で、源氏には大きな不利益をもたらした可能性があるのです。
さらに言えば、信西はもともと学者出身で、政治の世界というより学問の人でした。そのため後ろ盾が少ない立場にあったとみられます。一族を要職に据えて地盤を固めることも怠らず、家柄と地位が直結する貴族社会において、本来要職に就くはずだった貴族たちからの反発は避けられませんでした。
寺社勢力の抵抗にはどう対抗したのか?
平安時代後期の主な軍事力といえば、武士と寺社勢力です。寺社に対抗するには、武士の武力に頼るのが最善だと信西は考えました。
武士といえば平氏か源氏ですが、源氏は保元新制によって不利益を被っていました。それでも義朝は信西に対して娘との縁組を申し込みますが、信西は「学者の家と武家では釣り合わない」と丁重に断りました。
ところが清盛は、自分の娘を信西の息子の嫁として迎えさせることに成功します。これによって信西と義朝の関係は決定的に悪化してしまいました。
その理由については、知識人肌の信西と、東国で荒っぽい者たちをまとめてきた義朝では、そもそも気性が合わなかったからだとも言われています。清盛は武士でありながら京育ちです。義朝よりも清盛のほうが、信西とは話が通じたのかもしれません。
まとめ
簡単にまとめると、保元の乱の終結後、後白河天皇と信西を中心に、次のような政策が進められました。
- 反対勢力の一掃
- 摂関家の弱体化
- 一族を要職に据えた信西自身の地盤固め
既得権益を持つ貴族や寺社勢力にとっては、面白くない話ばかりでした。こうした中、武力を持つ義朝を引き込みながら、反信西派が徐々に結束していくことになります。
※画像はキリヌケ成層圏よりお借りしました。