以前、本能寺の変に関する記事を書いた際にも触れましたが、あの事件の裏で明智光秀を唆した人物は一体誰だったのでしょうか。現在、さまざまな容疑者が浮上しています。
本記事では、代表的な「黒幕説」を一つずつ検証していきます。
最も無防備な状態で狙われた織田信長
まずは当時の情勢を確認しましょう。天正10年(1582年)3月、織田信長は甲斐へ侵攻し、宿敵・武田氏を滅ぼしました。武田氏の旧領である甲斐と信濃を足場に、滝川一益を軍団長として関東地方への進出を計画していました。
一方、北陸地方では柴田勝家が越後の上杉氏と対峙し、中国地方では羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が毛利氏と激しく攻防を続けていました。秀吉は勝利の仕上げとして、信長に援軍を要請します。
信長はこの要請を受け入れ、明智光秀に出陣を命じました。このとき信長自身は、わずかな手勢(小姓衆のみ)を率いて京都・本能寺へ向かっています。配下の主力武将たちは、前述の通り各地で戦っていたためです。
この好機を捉えたのか、中国地方へ向かうはずだった明智光秀は突如謀反を起こします。6月2日未明、光秀は信長の宿所である本能寺を急襲。信長は燃え盛る寺の中で自害したと伝えられています。
ここで大きな疑問が浮かび上がります。
- なぜ秀吉は信長に援軍を要請したのか?
- なぜ信長はわずかな手勢だけで本能寺に入ったのか?
本能寺は「寺」と呼ばれた「城」だった
当時の本能寺は、現在の二条城の南西、現在の本能寺から約1キロ西の場所に位置し、「東西140メートル×南北270メートル」という広大な敷地を有していました。
お堀のような濠、築地塀、土塁に囲まれたその姿は、寺院というより「城」だったことが、近年の発掘調査で明らかになっています。
それまでにも荒木村重、松永久秀、浅井長政、別所長治、さらには実弟・信行と、身近な者からの謀反を幾度も経験してきた信長。それほど堅固な拠点でありながら、本能寺にはごく少数の兵しか配置していませんでした。
当時、畿内周辺にもう敵はいなかった――その油断からなのでしょうか。答えを知るのは本人だけですが、本能寺の変は誰もが知る歴史事件でありながら、明智光秀の犯行動機は一切解明されておらず、真相は今も謎のまま残されています。
本能寺の変・黒幕説を検証
そんな中で注目されているのが、明智光秀の背後に黒幕が存在し、信長討伐を唆したとする説です。黒幕説が語られる背景には、光秀の行動があまりにも巧妙で、「事前に準備されていた」ように見える点があります。
【徳川家康】黒幕説
当時、徳川家康は信長と同じ戦国大名として同盟関係にありました。しかし、後に江戸幕府を開いたことを考えれば、最初から天下を狙っていたと見ることもできます。
事件当日、家康は「堺見物」を名目に、大量の金銭を持って堺の町に滞在していました。
折しも信長は南蛮貿易を推進しており、この政策は堺の商人たちの利益を奪いつつありました。長年親交のあった家康が、堺の商人たちに「信長を倒そう」と唆していたとしたら――? そう考えることもできるのです。
【羽柴(豊臣)秀吉】黒幕説
事件後の秀吉の動きを見れば、容疑者の筆頭に挙げられるのも不思議ではありません。
織田家には柴田勝家や滝川一益といった、跡目相続にふさわしい譜代の重臣たちがいました。実力本位の織田家とはいえ、出自を考えれば秀吉が「頂点」に立つのは難しい。ならば、一発逆転を狙ったのでは……と考えられるのです。
事件当時、秀吉と光秀はそれぞれ山陽・山陰方面の攻略を任されていました。「手を結べば西日本を制御できる」と、秀吉が光秀に信長暗殺を持ちかけた可能性もあります。
毛利氏との講和の手際の良さ、そして常識外れの速度で見せた「中国大返し」。あれほどの機動を実現できたのは、事件を事前に知っていたと考えるしかありません。
実際、秀吉は以前から京都方面に間諜(スパイ)を配置していたようで、本能寺の変をかなり早い段階で知っていたのは事実です。
さらに、光秀を破った後の山崎の合戦は、「謀反の責任をすべて光秀に押し付ける」ための戦いだったとも解釈できます。
【安国寺恵瓊(毛利氏)】黒幕説
武田氏滅亡後、信長にとって最大の脅威となっていたのは、中国地方の毛利氏でした。
当時、毛利氏は中国派遣軍の秀吉と激しく攻防していましたが、織田軍の総攻撃が始まれば、存亡の危機に直面します。
そこで毛利家の外交僧・安国寺恵瓊が、光秀と秀吉の全面的な協力を条件に、一族存続のため信長暗殺を唆したのではないかとする説があります。
後に秀吉の時代が訪れると、安国寺恵瓊と毛利氏は厚遇を受けています。
秀吉が天下を取れたのは毛利氏と恵瓊のおかげだと考えれば、あれは破格の扱いだと言えるでしょう。
【仏教勢力】黒幕説
それまで信長は、比叡山延暦寺や石山本願寺といった仏教勢力を弾圧し、深い恨みを買ってきました。
石山本願寺は最後まで徹底的に信長に対抗しましたが、天皇の仲介による和議によって大坂から退去する歴史があります。
強い反感を抱く本願寺勢力が、信長を「死んだも同然の存在」とみなせば、動機としては十分すぎるほどあるのです。
【朝廷・公家】黒幕説
これまでいくつかの黒幕を挙げてきましたが、現在、この朝廷・公家説が最も有力視されています。
この説が生まれたきっかけは、安土城の発掘調査で、天皇の御所・清涼殿を模した建物が見つかったことです。
つまり信長には、「天皇を安土に迎え入れる構想」があったと考えられます。この構想が実現すれば、公家勢力は「朝廷の実権を信長に握られ、自らの立場が危うくなる」と危機感を抱いたはずです。
その結果、正親町天皇が側近の近衛前久らを中心に光秀を取り込み、信長暗殺に踏み切ったと考えられています。大河ドラマ『麒麟がくる』でも、正親町天皇が光秀に信長討伐を促すような描写が見られました。
しかし皮肉なことに、事態は思いもよらぬ方向へ進みます。天下を取ったのは羽柴秀吉だったのです。当時の公家たちにできることは、出自の怪しい秀吉に「関白」の座を与えることだけでした。
この関白就任劇を、「信長のような独善的な振る舞いをする者を二度と出さないための公家の駆け引き」と捉えれば、「朝廷・公家黒幕説」は十分にあり得る話なのです。
結論:黒幕は本当に存在したのか?
以上に挙げた黒幕説は、いずれも古くから語り継がれてきた仮説の一つにすぎません。
それほどまでに、光秀の裏切りから始まる本能寺の変は謎に包まれており、新しい史料や発掘調査の進展とともに、新たな説が登場する可能性もあります。
今回は黒幕という視点から記事を執筆しましたが、本能寺の変が光秀の単独犯だったのか、そもそも黒幕が存在したのかどうかすら、定かではありません。
先述の通り、本能寺は誰もが想像する「寺」ではなく、「城」だったことが近年の発掘で判明しました。こうした日々の調査・研究の積み重ねによって、私たちが学んできた日本の歴史は、今後も大きく塗り替えられていくことでしょう。