アジアの歴史

40年越しの外交的挑戦――不平等条約改正への道

幕末に江戸幕府が西洋諸国と結んだ不平等条約。そこには領事裁判権(治外法権)が認められ、日本は関税を自国で決められない状態に置かれていました。領事裁判権の撤廃と関税自主権の回復は、富国強兵を掲げて近代国家を目指す明治政府にとって、最重要の外交課題となったのです。

不平等条約改正に向けた交渉の始まり

条約改正を求める動きは早くも始まっていました。1871年に出発した岩倉具視率いる岩倉使節団は、その一環としてアメリカで条約改正交渉を行いましたが、各国の同意を得られず、交渉はまったく進展しないまま失敗に終わっています。

本格的な交渉が始まるのは1876年、寺島宗則外務卿の時代です。寺島は関税自主権の回復を目標に外交交渉を進めました。日本との関係強化を図りたいアメリカはこれに同意しましたが、対日貿易の中核を担っていたイギリスが強硬に反対します。さらに、条約改正には締結国全ての同意が必要という規定のため、改正は実現しませんでした。

井上馨による交渉と鹿鳴館外交

寺島の後を継いだ井上馨は、1882年に東京へ各国公使を集めて予備会議を開き、条約改正案の作成を進めました。

その内容は、それまで一部に限られていた外国人居留地を廃して日本全国を外国人に開放する「内地雑居」と引き換えに、領事裁判権を原則として撤廃し、関税自主権の一部を回復するというものでした。

しかし、領事裁判権撤廃の条件として、日本人被告に関する裁判でも外国人判事を過半数任用することが盛り込まれたことに対し、西欧諸国の法典を編纂してまで受け入れるのは主権の侵害だとして、政府内部から強い批判が噴出します。

さらに問題となったのが、井上の極端な欧化政策でした。交渉を有利に進めるため、外国人との社交の場として迎賓館「鹿鳴館」を建設し、上流階級の生活様式や風習の西洋化を推進。礼法や社交の欧化にとどまらず、風俗改良を狙った「国旗改良運動」や国語のローマ字化論、さらには外国人との結婚による人種改良論まで現れるほどでした。

こうした井路線への反対は、政府の内外で次第に高まっていきます。

ノルマントン事件と井上馨の退陣

1886年、イギリス船ノルマントン号の沈没事故に際して、日本人乗客を見殺しにしたイギリス人船長が領事裁判で無罪となるノルマントン事件が発生。領事裁判権の完全撤廃を目指さない井上への批判は一気に頂点に達し、井上は交渉の打ち切りと外務大臣の辞任を余儀なくされました。

半世紀にわたる条約改正への歩み

井上の後を継いだのは大隈重信です。大隈は井上の改正案を一部修正して各国との交渉を再開しました。ところが、大審院に外国人判事を任用できるという修正条項が新聞で暴露されると、国民の間に激しい反対運動が巻き起こります。そして1889年、大隈は国粋主義者に爆弾で襲われて負傷し、条約改正交渉は再び中断されてしまいました。

転機となった国際情勢

その後、条約改正の鍵を握っていたのは依然としてイギリスでしたが、ロシアの南下政策を警戒したイギリスが、日本との関係強化に動きます。この好機を捉えたのが、当時の外務大臣青木周蔵でした。交渉は順調に進んでいましたが、訪日中のロシア皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)が警備の巡査に斬りつけられる大津事件(1891年)が発生。責任を取って青木が外相を辞任し、改正交渉はまたしても頓挫します。

陸奥宗光による条約改正の達成

しかし、その後に外相となった陸奥宗光は、自由党の支持を取り付けて国内の反対論を抑え込み、1894年、日清戦争開戦の直前に領事裁判権の撤廃と関税率の引き上げを内容とする「日英通商航海条約」の調印にこぎつけます。

同様の条約が他の西洋諸国とも順次締結され、条約は1899年に発効しました。

残された関税自主権については、1911年、当時の外務大臣小村寿太郎によって完全回復が果たされます。開国からおよそ半世紀、幾多の挫折を経て、日本はようやく不平等条約を改正し、列強と対等な条約上の地位を手に入れたのです。