アジアの歴史

江戸時代の流れ ~武断政治から文治政治へ、幕藩体制の安定への道~

江戸幕府の初期、初代・徳川家康から第3代・徳川家光までの将軍は、武力を背景に大名を厳しく統制しました。これを武断政治と呼びます。

「武家諸法度」に違反したという理由で大名は次々と処分され、1600年から1640年頃までの間に改易となった大名は実に198家に及んだといわれています。

その結果、職を失った武士、すなわち浪人が急増し、大きな社会問題となりました。
浪人とはいえ彼らも武士であり、武器を携えた危険分子であることに変わりはありません。しかし幕府の対応は取り締まりばかりで、失業対策のような救済策は一切講じられませんでした。

1651年(慶安4年)、第3代将軍・徳川家光が死去すると、まだ幼い徳川家綱が第4代将軍に就任します。

同年7月、兵学者の由比正雪が丸橋忠弥らと共謀し、幕府批判と浪人救済を掲げて反乱を企てました。これが慶安の変(由比正雪の乱)です。老中への襲撃計画もあったと伝わり、幕府は武断政治からの政策転換を迫られることになります。

文治政治への転換

力による大名統制の限界が露呈すると、幕府は統制方法の変更を余儀なくされます。

そこで幕府は儒学を採用し、社会秩序の維持、徳川支配の正当化、将軍権威の強調、封建的身分秩序の確立を図ろうとしました。

恐怖で従わせるのではなく、「将軍のために命を捧げるのは臣下として当然の務め」という倫理観を大名に植え付けるのです。こうすれば、たとえ将軍が無能であっても家臣たちが全力で補佐してくれると考えられるため、無理に威圧する必要はなくなります。

このように儒学は、大名を統制するうえで極めて有効な思想だったのです。

第4代将軍・徳川家綱の時代

第4代将軍・家綱は幼くして将軍職に就いたため、自ら政治を行うことは少なく、政務を補佐したのが叔父の保科正之と老中の酒井忠清でした。

将軍が年少であったことから、保科正之・松平信綱・阿部忠秋・酒井忠清らによる合議制で幕政が運営されました。江戸時代全体を見渡しても、これほど合議制が機能した時期はまれで、この安定した政権は29年間続きました。

ところがこの頃、後継ぎのいないまま改易となる大名が相次ぎ、57家・約400万石が改易されました。「1万石につき家臣235人」という当時の標準的な家臣団規模で計算すると、約9万人もの浪人が新たに生じたことになります。

その緩和策として末期養子の禁の緩和(病気が篤くなってからの養子縁組の容認)が実施されました。さらに1663年(寛文3年)には武家諸法度が改正され、殉死の禁止と大名証人制度(人質)の廃止が定められます。

主君が死去すると家臣が後を追って自害する風習があり、殉死者が多ければ多いほど「忠義者」とされる風潮がありました。しかしこの無意味な死を強いる慣習は、殺人行為に相当するものとして禁止されたのです。

第5代将軍・徳川綱吉の時代

保科正之の死後、老中酒井忠清が幕政の実権を握り、専横をふるうようになりました。1680年(延宝8年)、家綱が40歳で死去すると、その弟の徳川綱吉が将軍に就任します。
酒井忠清は、将軍は飾りでもよいと考えて自分に都合のよい人物を擁立しようと提案しましたが、水戸光圀の反対によって退けられ、綱吉の就任が実現しました。

綱吉は家綱とは異なり、自ら政治を主導する将軍でした。まず老中の酒井忠清を罷免し、代わって堀田正俊を重用します。
しかし1684年(貞享元年)、堀田正俊が暗殺されると、綱吉は親政(将軍親裁)へと移行します。
将軍が再び暗殺されないよう、将軍と老中の部屋は物理的に引き離され、両者の連絡役として側用人という役職が設けられました。その任に選ばれたのが柳沢吉保です。

綱吉は気まぐれな一面を持つ将軍で、気に入った人物を抜擢する一方、気に障ることがあるとすぐに激怒したといいます。そのため綱吉期に入ると大名の改易が再び増加し、浪人もまた増えてしまいました。

側用人を置いて老中を遠ざけるようになってから、綱吉は生類憐みの令など、世に語り継がれる政策を次々と発布します。この一連の政策により、幕府の財政状況は悪化していきました。

第6代・徳川家宣、第7代・徳川家継の時代

1709年(宝永6年)、綱吉は後継者を残さないまま死去し、甥にあたる徳川家宣が第6代将軍として幕政を継承します。綱吉の遺言は「生類憐みの令を100年守れ」というものでした。

家宣は自己主張こそ強くないものの、名君の一人と評価される人物です。綱吉の葬儀が終わらないうちに生類憐みの令を廃止し、捕縛されていた8831人を釈放しました。もちろん、綱吉のもとで権勢を誇った柳沢吉保は罷免されています。

吉保に代わって幕政を主導したのが新井白石です。白石は将軍権威の回復を目指し、武家諸法度を改正し、服制を定め、徳川家の家紋である葵紋の使用を制限しました。

さらに朝廷の権威とも連携し、閑院宮家の創設や、霊元天皇の皇女・八十宮吉子内親王と将軍世嗣(家継)との婚約などを実現させています。

新井白石の政策は、綱吉時代のそれとは正反対のものでした。
まずデフレ(通貨緊縮)政策として正徳金銀への貨幣改鋳(正徳の治)を実施します。貨幣の発行量を減らし、過熱した経済を冷やす狙いがありました。さらに金銀の海外流出が懸念されたため長崎貿易の制限に乗り出し、海舶互市新例(正徳新例)を発布して貿易量に上限を設けました。

しかし、家綱の時代頃から始まっていた幕府の財政難は、この文治政治のもとでも解消されず、むしろ悪化の一途をたどります。そしてこの財政難への対応は、江戸時代の終焉まで続いていくのです。

武断政治から文治政治へと転換して以降、大名は刀の威力ではなく権威によって服従することになります。同じ刀でも、蒔絵などの装飾によって見栄えよく仕上げることが重要になり、その分だけ費用がかかるようになりました。

そのため武士たちは格式を保つために、無理をして使用人を雇い、他の武士との交際費に金を注ぎ込み、生活を切り詰めてまで中元や歳暮の贈答品を用意しなければならなかったのです。

江戸幕府の財源は米に依存していましたが、米価は他の物価に比べて下落傾向にありました。しかし幕府は第4代将軍から第7代将軍に至るまで、具体的な対策を打ち出せないまま財政難を抱え続け、第8代将、第8代将軍・徳川吉宗による享保の改革を待つことになるのです。