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【彰義隊】新選組を脱退した原田左之助の最期!わずか1日で終わった上野戦争!

幕末最後の戦いともされる、旧幕府軍対新政府軍の戊辰戦争。その渦中で結成されたのが彰義隊(しょうぎたい)です。新選組十番隊組頭だった原田左之助(はらださのすけ)が、新選組脱退後に加わった部隊としても知られています。


この記事では、彰義隊がどのように誕生し、旧幕府にとってどのような存在だったのか、そして上野戦争での結末までを詳しく解説します。


「江戸市中取締」は名ばかり?

江戸幕府15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が朝廷へ政権を返上した大政奉還(たいせいかんかん)。これで戦火は避けられたかに見えました。ところがその約2ヶ月後、薩摩藩などを中心とする新政府が王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)を発布します。

将軍職の辞任や幕府の廃止など、新しい体制づくりが一気に進められることになりました。

これに黙っていられなかったのが旧幕府側です。鳥羽・伏見の戦い(とばふしみのたたかい)が勃発し、ここに戊辰戦争の火ぶたが切って落とされました。


彰義隊結成!

京都での鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜と旧幕府軍は、江戸へ敗走することになります。

慶喜は新政府へ恭順の意を示し、江戸城を退去。上野の寛永寺(かんえいじ)にて蟄居(ちっきょ)=謹慎生活に入りました。

これに不満を抱いた幕臣たちはたびたび会合を重ね、参加者は次第に増加。ついに「恭順を強いられた主君・慶喜の冤罪を晴らすこと」を掲げて、彰義隊が結成されたのです。

総裁を務めたのは、慶喜が将軍に就く前から近侍していた幕臣・渋沢成一郎(しぶさせいいちろう)。

彼の従弟にあたる2歳年下の人物が、「日本資本主義の父」と呼ばれ、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)やキリンビールなど500社以上の設立に関わった渋沢栄一(しぶさわえいいち)です。栄一は彰義隊結成の頃、フランス・パリに滞在していました。

そして副長は天野八郎(あまのはちろう)。「男たらば一度は臥せねばならぬ、二度は臥せぬよう前進あるのみ!」という言葉を残すほど、直情的で好戦的な性格の持ち主でした。


旧幕府は戦争を避けたかった?

江戸城を戦わずして明け渡す無血開城(むけつかいじょう)を目指していた旧幕府にとって、彰義隊の存在が新政府を刺激しかねないことが懸念されていました。そこで旧幕府は彰義隊に「江戸市中取締(えどしちゅうとりしまり)」という役目を与えます。

これは軍事組織ではなく、あくまで江戸の治安維持を目的とした名目上のものにすぎませんでした。

無血開城を実現させた幕臣・勝海舟(かつかいしゅう)は、武装衝突を恐れて彰義隊に解散を促します。しかし、すでに隊士の数は3,000〜4,000人にまで膨れ上がっていました。

勝海舟は坂本龍馬の師としても有名ですね。

勝の願いもむなしく、戊辰戦争は宇都宮、会津、そして箱館へと続いていきます。箱館戦争まで戦い抜いた新選組副長・土方歳三(ひじかたとしぞう)は、箱館でこの世を去りました。


上野戦争は本当に1日で終わった?

【彰義隊】新選組を脱退した原田左之助の最期!わずか1日で終わった上野戦争!

慶喜が水戸へ移ると、彰義隊総裁の渋沢成一郎も江戸からの撤退を主張。しかし、好戦派の副長・天野八郎との間で激しく対立することになります。

天野派の中には、総裁である渋沢を暗殺しようとする者まで現れました。渋沢は総裁の座を捨てて彰義隊を脱退。以降、彰義隊は天野八郎が率いることになります。


彰義隊の暴走?上野戦争勃発!

関東各地では「幕府再興」を掲げた旧幕府兵による放火や略奪が相次ぎ、江戸においては彰義隊が新政府兵を集団で襲撃し、殺害する事件まで起こります。

勝海舟ら旧幕府首脳は彰義隊へ解散を通告しますが、彼らは「戦わずして江戸を開城した裏切り者」と相手にしませんでした。江戸は無法地帯と化し、治安を乱したのは彰義隊自身でもあったのです。

こうした状況を受け、明治新政府は関東騒乱の原因を彰義隊の存在にあると判断し、討伐を決定。指揮を執ったのは、明治維新の功労者「維新十傑」の一人、大村益次郎(おおむらますじろう)です。


戦いはわずか10時間!

上野・寛永寺に立てこもる彰義隊と、大村益次郎率いる新政府軍の戦い「上野戦争」は、慶応4年5月15日(1868年7月4日)の午前7時に開戦しました。

大村の作戦配置を見た西郷隆盛は、「皆殺しにするつもりか」と言ったと伝わっています。どんな作戦だったのか、容易に想像がつくエピソードですね。

そしてアームストロング砲などの最新鋭の武器が投入され、戦闘は午後5時頃に終了。彰義隊はわずか1日の戦いでほぼ壊滅しました。

一方、元総裁の渋沢成一郎は振武軍(しんぶぐん)という新たな部隊を編成し、彰義隊の救援に向かおうとしましたが、間に合いませんでした。

自分を暗殺しようとした彰義隊を支援しようとしたのか、それとも敗残兵を自軍に取り込んで兵力を増やすためだったのか。真相は定かではありません。


敗戦後の彰義隊はどうなった?

【彰義隊】新選組を脱退した原田左之助の最期!わずか1日で終わった上野戦争!

壊滅した彰義隊の敗残兵の一部は、新たな部隊に加わり、その後の東北戦争や箱館戦争にも参加していきます。

一方、副長の天野八郎は投獄され、わずか数ヶ月後に獄中で亡くなりました。

新政府による彰義隊への処遇は、旧幕府勢力の中でも最も厳しいものだったといわれています。上野戦争で戦死した隊士たちは弔いを許されないまま放置され、墓の建立が許されたのは開戦から7年後のことでした。それほど扱いが過酷だったのです。


新選組・原田左之助も参戦!

元新選組十番隊組頭の原田左之助は、彰義隊に加わり上野戦争で戦いました。

しかし、この戦いで負った傷がもとで、わずか2日後に29歳の若さで亡くなったのです。

新選組脱退後、原田は同隊二番隊組頭だった永倉新八と「靖共隊」を結成しますが、妻子に会うために離脱。ところが京都にいる妻子の元へは姿を見せることなく、江戸で彰義隊に加わりました。

これには「生きていれば厳しい処罰を受け、家族に迷惑が及ぶ」という事情があったともいわれています。実際、彰義隊の名簿に原田の名前はありません。これは入隊が遅かったためと考えられています。

また、原田は実は生き延びており、海を渡って満洲で馬賊になったのだという説も残されています。


まとめ

新選組好きの方なら、今回紹介した「彰義隊」という名前を耳にしたことがあるかもしれません。新選組そのものとは直接の関係はありませんが、原田左之助の経歴をたどれば必ず登場する名前です。

将軍警護という名目で結成された彰義隊ですが、旧幕府内の開戦回避派との対立を経て、新政府に一泡吹かせたい好戦的な人々が集まる場となり、隊士は着実に増加していきました。

しかし、隊士数の急增を「自分たちが強くなった」と勘違いした結果、上野戦争でわずか1日で壊滅する悲劇を迎えることになります。

天野八郎が40人ほどを率いて「今すぐ戦え!」と叫んで振り返ったところ、誰一人いなかった――そんな逸話も伝わっています。


大切なのは数ではなく、質だということなのでしょうか。