本記事では、1885年のインド国民会議創設から1947年のインド独立に至るまで、インド独立運動における重要な出来事を時系列に沿ってわかりやすく解説します。ガンディー、ネルー、スバス・チャンドラ・ボースなど、独立運動を牽引した指導者たちの足跡とともに、その歴史をたどりましょう。

インド国民会議の創設と初期の運動
- インド国民会議は、1885年にイギリス人の元高級行政官A・O・ヒュームによって創設されました。最初の大会は1885年12月にボンベイ(現ムンバイ)で開催され、72名が参加しました。初代会長はウォメッシュ・チャンドラ・バナージーです。その後、1887年にはバドルディン・タイブジーが初のムスリム会長に、1888年にはジョージ・ヤールが初のキリスト教徒かつ外国人会長に就任しています。
- バル・ガンガーダル・ティラクは、民族意識を高めることを目的として、1893年にガネーシャ祭を、1895年にシヴァージー祭を始めました。
ベンガル分割と急進派の台頭
- ベンガルの民族意識の高まりを抑え込むため、総督カーゾン卿は1905年10月16日にベンガルを分割しました。これに反対して、全国でスワデーシ(国産品愛用)運動とボイコット運動が展開されました。
- 「ラル・バル・パル」と呼ばれたラーラー・ラージパト・ラーイ、バル・ガンガーダル・ティラク、ビピン・チャンドラ・パールは、急進主義思想の支持者として知られています。
- ダーダーバーイー・ナオロージーは、1906年のカルカッタ大会で初めてスワラージ(自治)の要求を公式に掲げました。彼は「インドの大老人(グランド・オールド・マン)」と呼ばれています。
- 1907年のスーラト大会では、スワデーシ問題をめぐって会議は穏健派と急進派に分裂しました。なお、ムスリム連盟は1906年にナワーブ・サリームッラーの主導のもとで結成されています。
- 政府は1909年にインド参事会法を成立させ、ムスリム向けの別枠選挙区と投票権を初めて認めました。
統一と自治要求の強まり
- 1911年、イギリス国王ジョージ5世と王妃メアリーを迎えるため、デリーで壮麗な大観兵式(デリー・ダルバール)が開催されました。この式典において、ベンガル分割の撤回と、インドの首都をカルカッタからデリーへ移転することが発表されました。
- 1916年にラクナウで開催された大会では、分裂していた会議派の両派が和解しました。この大会で、インド国民会議とムスリム連盟が初めて同じ舞台に立つことになりました。
- 自治要求を強めるため、バル・ガンガーダル・ティラクは1916年4月に、アニー・ベザントは同年9月に、それぞれホーム・ルール・リーグ(自治連盟)を結成しました。
- 1917年のカルカッタ大会ではアニー・ベザントが議長を務め、女性として初めて会長職に選ばれました。同年8月20日には、モンタギューがイギリス議会で決議を提出しました。これは「8月宣言」として知られ、インドの行政のあらゆる部門へのインド人の漸進的参加をうたうものでした。
第一次世界大戦後:弾圧と非協力運動
- 1919年のインド統治法により、州レベルでの二重統治体制(ダイアーキー)が導入されました。
- 1919年4月13日、パンジャーブの重要指導者サイフッディーン・キッチルーとサティヤパル博士の逮捕に抗議する大衆集会が、アムリットサルのジャリアンワーラー・バーグで開かれました。
- ダイアー将軍の命令により発砲が行われ、数百人の非武装の民衆が犠牲となりました。これは「ジャリアンワーラー・バーグ事件」として知られています。この虐殺に抗議して、ラビンドラナート・タゴールはイギリスから授与されていたナイト称号を返上しました。
- 1920年、トルコのカリフへの不当な扱いに反対して、インドでヒラーファト運動が起こりました。
- 1920年、ガンディーの指導のもと、インド国民会議は非協力運動を開始しました。しかし1922年2月5日、ウッタル・プラデーシュ州チョウリ・チャウラで激昂した群衆が警察署に放火し、警官たちが焼死する事件が発生すると、ガンディーは暴力の横行を懸念して直ちに運動を中止しました。
スワラージ党とサイモン委員会への抵抗
- 1923年1月、チッタランジャン・ダースとモーティラール・ネルーによってスワラージ党が結成されました。
- 1923年の選挙では、スワラージ党が中央立法議会の議長職にヴィッタルバーイー・パーテールを選出することに成功しました。
- 1919年のインド統治法を見直すため、1927年11月8日にサイモン委員会が設置されました。
- 1928年2月3日、サイモン委員会がインドに到着しましたが、委員にインド人が一人も含まれていなかったため、全国で猛反対を受けました。この際、ラホールでの抗議行動でラーラー・ラージパト・ラーイが重傷を負い、後にその傷がもとで亡くなりました。
プールナ・スワラージ(完全独立)へ
- 1929年のラホール大会でジャワハルラール・ネルーが議長を務め、プールナ・スワラージ(完全独立)が党の目標として宣言されました。
- 1929年12月31日、ジャワハルラール・ネルーはラホールのラーヴィー川のほとりで三色旗を掲げました。
- 1930年3月12日、マハトマ・ガンディーは78人の志願者とともにサバルマティー・アシュラムを出発し、ダンディーへの行進(塩の行進)を開始しました。
- 1930年4月6日、ダンディーに到着したガンディーは塩法を破り、市民的不服従運動を開始しました。
- 1931年3月5日、ガンディーと当時の総督アーウィン卿との間で協定が結ばれ、市民的不服従運動は中断されました。
- ロンドンで開催された3回の円卓会議のうち、インド国民会議が参加したのは第2回のみで、ガンディーが会議派の代表を務めました。
- 1932年、イギリス首相ラムゼイ・マクドナルドは、不可触民(ダリット)のための別枠選挙区を認める「共同体裁定(コミュナル・アワード)」を発表しました。
社会主義勢力の台頭と独立への最終段階
- 1934年、ジャヤプラカーシュ・ナーラーヤン、アーチャーリヤ・ナレンドラ・デーヴ、ミヌー・マサーニらの努力によってインド会議派社会党が結成されました。
- 1935年のインド統治法では州自治が認められ、連邦裁判所の設置も規定されました。1937年の州議会選挙後、インド国民会議は8つの州で政権を樹立しました。
- 1940年、ムハンマド・アリー・ジンナーはムスリム連盟ラホール大会でパキスタンの建設を要求しました。
- 1942年8月8日、ボンベイで開かれた集会で「インドから立ち去れ(クイット・インディア)」運動が開始され、マハトマ・ガンディーは「勝つか死ぬか(Do or Die)」というスローガンを掲げました。一方、スバス・チャンドラ・ボースはガンディーとの路線対立により1939年に会議派を離脱し、フォワード・ブロックを結成していました。
- 自由インド軍(アザード・ヒンド・ファウジ)構想を最初に思いついたのはモーハン・シンでした。
- 1943年10月21日、スバス・チャンドラ・ボースはシンガポールで自由インド臨時政府を樹立しました。
- 「デリーへ進め」「血をくれ、さもなくば自由をくれ」——これらの有名なスローガンはスバス・チャンドラ・ボースによるものです。また、ガンディーを最初に「国家の父」と呼んだのもボースでした。
- 1946年、内閣使節団がインドに派遣されました。メンバーはスタッフォード・クリップス、ペシック・ローレンス、A・V・アレグザンダーの3名です。憲法制定議会は、この内閣使節団の計画に基づいて構成されました。
- 1947年6月3日、当時の総督マウントバッテン卿がマウントバッテン案を提示しました。これは後のインド分割の基礎となりました。
- 1947年8月15日、インドとパキスタンという2つの新しい国家が誕生しました。
- インド独立当時のイギリス首相はクレメント・アトリーでした。
- 独立当時のインド国民会議議長はJ・B・クリパラーニーでした。
- 独立インドの初代総督はマウントバッテン卿です。その後、チャクラヴァルティー・ラージャゴーパーラーチャーリーが初代にして最後のインド人総督となりました。
以上のように、インドの独立運動は約60年以上にわたる長い闘いの歴史です。穏健派と急進派の対立、大衆運動の盛り上がり、そして武装闘争まで、多様な形態の抵抗が積み重ねられた末に、ついに1947年の独立が実現しました。