本記事では、現在のインド・ビハール州北部からネパール南部のタライ地方にかけて栄えたカルナート王朝(カルナータ王朝)の歴史について、成立の背景から滅亡後の文化的影響まで詳しく解説します。
カルナート王朝成立の背景
11世紀末のビハール地方では、パーラ朝の衰退に伴う政治的混乱が広がっていました。トルコ系勢力によるビハールへの軍事遠征が現実味を帯びるなか、この地域は極めて不安定な情勢に置かれていました。こうした空白期に、ティルフット(ミティラー)地方で新たに台頭したのがカルナート王国です。
創設者ニャヤデーヴァの時代
カルナート王朝の創設者はニャヤデーヴァ(Nanyadeva)です。彼は1098年から1133年まで統治した優れた君主であり、王朝の基盤を固めました。
ガンガデーヴァの統治と首都シムラオンガル
その息子ガンガデーヴァは有能な行政官として1133年から1187年まで王位に就きました。王朝の首都はシムラオンガル(Simraongarh)に置かれ、この地は現在のネパール・タライ地方北東部に位置しています。
ナルシンハ・デーヴァとトルコ勢力との外交
ガンガデーヴァの後を継いだナルシンハ・デーヴァは1187年に即位し、38年間にわたって統治しました。彼はベンガル方面の軍事支配者たちとの抗争を続けたため、トルコ勢力との協力関係を築く道を選びました。バフティヤール・ハルジーがビハール地方へ侵攻した際には、貢物を献上して彼を懐柔しています。当時、ナルシンハ・デーヴァの支配権はミティラー地方およびダルバンガ一帯に及んでいました。
13世紀に入ると、ビハール地方ではイスラム勢力による軍事作戦が繰り返し実施されました。同時代のチベット人旅行者ダルマスワーミンは、トルコ系将軍トゥガーンによるこの地域での遠征が失敗に終わったことを記録に残しています。この頃ティルフットを支配していたのはラーム・シング・デーヴァ(1225年~1276年)でした。
シャクティ・デーヴァ・シングからハリシングデーヴァへ
ラーム・シング・デーヴァの息子で後継者のシャクティ・デーヴァ・シングは、統治能力に欠ける弱い君主でした。しかし、その息子ハリシングデーヴァは、創設者ニャヤデーヴァをしのぐ名声を得ることになります。この時代、デリー・スルタン朝のスルタンたちはカルナートの支配者たちとの連絡窓口を維持していました。
ティルフットの支配者であったハリシングデーヴァは、ついにイスラム軍の攻撃に抗しきれずネパールのタライ地方へ退き、これによりビハール北部・中部の地域はスルタン朝の勢力下に組み込まれました。それでもハリシングデーヴァ(1279年~1325年)は、偉大な社会改革者として精力的に活動を続けたのです。
パンジー制度とマイティリー社会の形成
この時代には、家系・戸籍を記録するパンジー(登録簿)管理制度の発展が見られました。その結果、記録管理を専門とする新しい階層が組織されることになります。また、系譜や論考に関する著作がこの時期に数多く著され、今日まで受け継がれるマイティリー社会の独特な形態と特徴も、この時代にその起源を持っているのです。