ペロポネソス戦争とは
ペロポネソス戦争(紀元前431年~紀元前404年)は、ギリシャの二大勢力であるアテナイ(デロス同盟)とスパルタ(ペロポネソス同盟)が覇権をかけて戦った、古代ギリシャ史上最大規模の戦争です。27年以上に及ぶ長期の戦いには数多くの陸海の戦闘が含まれています。ここでは、主要な戦いを時系列に沿ってわかりやすく紹介します。
開戦のきっかけとなった戦い
シュボタの海戦(紀元前433年)
コリントスとコルキュラ(現コルフ島)の間で行われた海戦です。アテナイがコルキュラ側について介入したことが、ペロポネソス戦争勃発の直接の引き金の一つとなりました。
ポティダイアの戦い(紀元前432年)
アテナイの支配に反発したポティダイアをめぐる攻防です。コリントスが援軍を送ったことで対立が深刻化し、翌年の正式な開戦へとつながりました。
第一次段階:アルキダモス戦争(紀元前431~421年)
ピュロスの戦い・スファクテリアの戦い(紀元前425年)
アテナイ軍がピュロス湾でスパルタ軍を破り、さらにスファクテリア島でスパルタ兵約120名を捕虜にしました。「不敗」とされたスパルタ重装歩兵が降伏したことは、当時の人々に大きな衝撃を与えました。
デリウムの戦い(紀元前424年)
アテナイがボイオティア地方に侵攻した際の会戦で、テーバイを中心とするボイオティア軍がアテナイ軍を撃破しました。哲学者ソクラテスも重装歩兵として参加し、撤退時に冷静な行動を見せたと伝えられています。
アンフィポリスの戦い(紀元前422年)
スパルタの名将ブラシダスとアテナイの指導者クレオンが、共に戦死した悲劇的な戦いです。両雄の死が、翌年の講和への道を開くことになりました。
ニキアスの和約(紀元前421年)
厳密には戦闘ではなく、50年間の平和を定めた和平条約です。しかし実際には対立は解消されず、休戦期間中も各地で小規模な衝突が続きました。
マンティネイアの戦い(紀元前418年)
和約後もスパルタはアルゴスなどを中心とする連合軍と戦い、マンティネイアでこれを打ち破りました。この勝利により、スパルタはペロポネソス半島における覇権を再確認しています。
シケリア遠征(紀元前415~413年)
アテナイはシケリア(シチリア)島の親スパルタ都市シュラクサイの攻略を目指し、大艦隊と大軍を派遣しました。しかし遠征は完全な失敗に終わり、艦船と兵力の大半を失う「シケリアの惨事」となります。この大損害こそが、戦争全体の流れを大きく変える転換点でした。
最終段階:デケレイア戦争(紀元前413~404年)
キュジコスの海戦(紀元前410年)
アテナイ海軍がアルキビアデスの指揮の下でスパルタ艦隊を壊滅させ、エーゲ海の制海権を一時的に取り戻した海戦です。
アルギヌサイの海戦(紀元前406年)
アテナイが挙げた最後の大勝利です。ただし、嵐の中で遭難した味方の救助を優先しなかった責任を問われ、勝利を収めた将軍たちが処刑されるという悲劇も同時に起きています。
アイゴスポタモイの海戦(紀元前405年)
スパルタの名将リュサンドロスが、停泊中のアテナイ艦隊を奇襲してほぼ全滅させた決定的な海戦です。この敗北によりアテナイは穀物の補給路を断たれ、翌年に降伏。ペロポネソス戦争はスパルタの勝利によって幕を閉じました。
まとめ
ペロポネソス戦争は、シュボタとポティダイアで火種が燃え上がり、ピュロスやアンフィポリスといった激戦を経て、シケリア遠征の大失敗を境に形勢が逆転し、最後はアイゴスポタモイの海戦で決着しました。
なお、よく混同されやすいのですが、テルモピュライ、サラミス、プラタイア、ミュカレなどの戦いはペルシャ戦争(紀元前480~479年頃)の戦いであり、ペロポネソス戦争には含まれない点に注意しましょう。