1905年頃のキールウィーク:フィヨルドを行く船々が礼砲を放っていた。
1882年、20隻のヨットから始まった物語
1881年の夏、海上で何が起きているのかを興味深そうに眺める二人の男がいた。キールではほとんど誰も関心を示さなかった小さな親善レガッタだったが、ハンブルクの二人のセーラーだけは真剣に注目していた。北ドイツ・レガッタ協会の会長とその義兄弟は、翌年、キールのセーラーたちと手を組み、この親睦的な競技会を一大イベントへと発展させたのである。
こうして1882年6月23日、20隻のヨットとともにキールウィークの歴史が幕を開けた。わずか10年後には、世界中から参加者が集まるようになる。ハンブルク・セーリングクラブは、キールの海軍将校たちが設立した海軍レガッタクラブという強力なパートナーを得たのだ。
皇帝の来訪
セーラーの友として知られたヴィルヘルム2世皇帝は、即位の翌年にあたる1889年、レガッタ観戦のためキールを訪れた。さらに1891年5月2日には「コモドール(提督)」として海軍レガッタクラブの後援を引き受け、同クラブは「帝国ヨットクラブ」と改称された。1894年、皇帝陛下が再び訪れた際、数日間にわたるレガッタ行事を指す「キーラーウォーヒェ(キール週間)」という言葉が新聞に初めて登場し、以来この名称が定着することとなった。しかし1914年、皇帝がヨット「メテオ」の船上でサラエボ事件の報せを受け取ったとき、このセーリングイベントの歴史は一旦幕を閉じたのである。
ナチス政権下、「ドイツのショーウィンドウ」へ
第一次世界大戦後最初となる1920年のキールウィークには、登録されたヨットはわずか60隻弱だった。だが、街が再び国際的な注目の的となるのに時間はかからなかった。ナチスの台頭とともに、この一週間はドイツのショーウィンドウへと変貌していく。数百隻のセーリングボートと軍艦が並び、家々の壁にはハーケンクロイツ旗が掲げられ、「歓喜力行団(クラフト・ドゥルッヒ・フロイデ)」による大花火大会が打ち上げられた。華やかなレガッタディナーや舞踏会は、かつてのヴィルヘルミン時代を偲ばせるものだった。
絶頂期は1936年、キールで開催されたオリンピックのセーリング競技で迎え、その後もキールウィークは盛大に祝われた。しかしその3年後、どん底が訪れる。1939年、第二次世界大戦の足音が迫ると、各国はほぼ完全に不参加を決めた。週の終わりに荷造りが進められるまさにそのとき、戦争が勃発したのである。
1945年、英国占領軍が復活させた「キールウィーク」
戦後、キール市民抜きで、しかしキールの中心部において、セーリングイベントは蘇った。英国占領軍が1945年に最初の「キールウィーク」を開催したのだ。翌年もイベントは繰り返されたものの、キール市民は排除されたままだった。転機は1947年、市長アンドレアス・ガイクが「9月週間――動き出すキール」を創設したことで訪れる。講演会や美術展を通じて戦後の復興の歩みを紹介するこの催しは、翌年「キールウィーク」の名で再び開催されることになった。
1948年には、2つのキールウィークが祝われた。6月にはセーリング、秋には「9月週間」である。そして1949年、ついに両者は一つのイベントとして統合された。セーリング、スポーツ、文化、そして子どもや若者向けのプログラムが、新たな一週間を形作ることとなったのである。
世界最大のセーリングイベントへ
2005年:ケーラー連邦大統領が、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州首相カルステンセンおよびウォルクヴァルツ市長とともにキールウィークを開幕させる。
1950年以降、歴代の連邦大統領や首相が船の鐘を受け継いできた。初代テオドール・ホイスからホルスト・ケーラーまで、その伝統は今も続いている。今日では5,000人以上の選手が、シルクゼーのオリンピックセンター前に広がる外洋で風と格闘している。これによりキールウィークは世界最大のセーリングイベントとなった。毎年約300万人の来場者を迎えるこの祭典は、シルクゼー、ラートハウス広場、オストゼーカイ、シュピーリニーネ、クルーゼンクップルングにまたがって繰り広げられる、北欧最大の夏の祭りでもあるのだ。