ヨーロッパの歴史

五賢帝最後の一人!マルクス・アウレリウス・アントニヌスは本当に名君だったのか?

五賢帝最後の一人!マルクス・アウレリウス・アントニヌスは本当に名君だったのか?

世界史の教科書において、最も長い名前を持つ人物の一人が今回の主人公、マルクス・アウレリウス・アントニヌスである。『哲人皇帝』として知られ、五賢帝の最後の一人として名高い彼の生涯は、遠く中国の『後漢書』において「大秦国王」として記録されるほど、東西にその名を轟かせた。

皇帝の座を約束された男

その才能を見抜いたのは、当時の皇帝ハドリアヌスだった。初代皇帝アウグストゥスがティベリウスを後継者に選んだ際、ゲルマニクスへの「つなぎ」役を期待したのと同様に、ハドリアヌスはアントニヌス・ピウスを後継者とする条件として、彼とアウレリウス、そしてもう一人のルキウス・ウェルスを養子に迎えることを定めた。

ルキウスの養子縁組は、ハドリアヌスによって粛清された人物の息子であったことへの贖罪とも言われるが、幼少期から広く才能を認められていたアウレリウスをハドリアヌスが高く評価していたことは疑いようがない。

アントニヌス・ピウスの養子となったアウレリウスは、当時最高水準の教育を受けて育つ。中でもギリシア人の家庭教師マルクス・コルネリウス・フロントは、当時随一の知性家とされ、後世『哲人皇帝』と呼ばれるアウレリウスの人格形成に多大な影響を与えた。

著書『自省録』に見られるように、アウレリウスの人格は内省的で思慮深く、寛容であった。その人柄は後世の研究者たちを魅了し、「名君」としてのイメージは揺るぎないものとなっている。

しかし、果たしてそうだろうか。全ての暴君が人格的に欠落しているわけではなく、人格に問題があっても暴君とは限らない。今回は、アウレリウス治世の実態がいかなるものであったかを検証してみたい。

皇帝即位まで

ハドリアヌスの死後、養父アントニヌス・ピウスが皇帝となる。ピウスは基本的にハドリアヌスの路線を継承し、一点を除いてその遺志を忠実に実行した。その一点とは後継者の婚姻問題であり、ハドリアヌスはルキウスにピウスの娘を娶らせるつもりだったが、ピウスはアウレリウスを婿に迎えた。

次期皇帝として知られるようになると、彼は順調すぎるほどに官職の階梯を上った。18歳でクァエストル(会計監査官)、19歳で執政官(コンスル)となる。コンスルは皇帝(プリンケプス)に次ぐ地位であり、未成年が国家のナンバー2になったのである。かつてコンスルには40歳以上という年齢制限があり、ローマの英雄スキピオでさえ第二次ポエニ戦争時に30歳に達していなかったため立候補を認められなかったほどだ。

現代では五賢帝の理想的な君主として再評価されているが、このあたりにローマ衰退の理由が垣間見える。古きローマでは平民であっても国運を左右する要職に就くことができ、それが国を繁栄させた。しかし、この頃のローマにはもはやその姿はない。個人的には、ローマの衰退はこの頃から始まったと考える。

それでも、もう一人の後継者候補ルキウスと比べれば、アウレリウスは圧倒的に優れていた。与えられた職務を着実にこなし、24歳で再び執政官となり、妻ファウスティナとの間に14人の子女をもうけ(うち6人が成人)、順風満帆に見えた。しかし、無事に成長した男子が後の暴君コンモドゥスただ一人であったことは、後のローマを混乱に陥れる伏線となる。

ピウスも娘を溺愛し、アウレリウスがまだ皇帝でないうちにファウスティナに「アウグスタ(皇后)」の称号を与えた。アウグスタは初代皇帝アウグストゥスの妻リウィアが死後に贈られた称号であり、皇后になる前から与えるのは、ピウスであっても親バカの極みと言わざるを得ない。個人的には、身内への贔屓が始まった時点で崩壊の兆しは見えている。当時はまだ崩壊しなかったが、アウレリウス死後、崩壊は怒涛のように押し寄せることになる。アウレリウスは養父の下で公務をこなしながら、哲学に没頭する日々を送った。

即位、共同統治、そして苦難

161年、養父アントニヌス・ピウスが崩御する。ここでアウレリウスは歴史上前例のない決断を下す。自分だけでなく、ルキウス・ウェルス(ルキウス・ウェルス)を同時に皇帝とすることを宣言したのだ。これがピウスによるハドリアヌスの遺志継承だったのか、あるいは誠実なピウスとアウレリウスが遺志なしに判断したのかは定かではない。こうして史上初の共同統治(二帝統治)が始まった。

しかし、アウレリウスの治世は即位早々、甚大な不運に見舞われる。最初の不運は、即位した161年に発生した大飢饉だった。地中海性気候で温暖かつ豊作のローマ領だが、この年は未曾有の不作となった。さらにテベレ川が氾濫し、対応に追われる中、次々と問題が噴出する。ローマ皇帝が代わるたびに勃発するアルメニア問題とパルティア問題である。

五賢帝最後の一人!マルクス・アウレリウス・アントニヌスは本当に名君だったのか?

この問題は常に「アルメニア王をパルティアが指名し、ローマが戴冠を認める」という形で解決されてきたが、今回パルティアは強硬だった。パルティアはアルメニアに駐屯し、親ローマ派のアルメニア王を追放した。これは実質的な宣戦布告であった。

当時のシリア総督はハドリアヌス時代から総督秘書官を務めていたルキウス・アッティディウス・コルネリアヌスで、すでに高齢であった。そのせいか、ローマはパルティア帝国に敗北する。長き平和が軍備を鈍らせたとも囁かれた。敗戦の責任を取り、カッパドキア総督マルクス・セダティウス・セウェリアヌスは自決を選んだ。

冒頭で触れたようにアウレリウスの正式名称は「インペラトル・カエサル・マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス」と長い。「インペラトル」と「カエサル」は後世、各言語で「皇帝」を意味する語となるが、インペラトルは元々最高軍事指揮官を意味し、ローマ皇帝は当然ながら最高司令官の地位を兼ねていた。

しかし、アウレリウスには軍事経験が皆無だった。ルキウスも同様である。生涯を通じて、アウレリウスに軍事的才能がなかったことは明らかだ。そこでアウレリウスは、共同皇帝ルキウスを総司令官としてパルティア遠征に派遣することを決断する。

このルキウスも中年男性であり、ローマが危機にあるというのに温泉巡りや観光を楽しみ、のんびりとティベリス川沿いを移動したと言われる。出発が遅れた上、軍事的才能もなく現地将軍たちの方針対立をまとめられず、ローマのアウレリウスへ指示を仰ぐ書簡が絶えなかったという。

そんな中、アウレリウスが派遣していたブリタンニア総督スタティウス・プリスクスがいち早くシリアに到着していたのは幸いだった。総司令官ルキウスは現地で愛人を作って遊び呆けていたようだ。奇妙な支援をしない分、アウレリウスが当時の名将たちをシリア方面に集結させていたことは功を奏した。アウィディウス・カッシウスもその一人である。

プリスクスとカッシウスは迅速にパルティア側を制圧し、親ローマ派のアルメニア王を擁立することに成功した。パルティアは大打撃を受け、このことが後のササン朝ペルシアの台頭を招くことになる。凱旋式がローマで挙行されたが、称えられたのは実際に戦った将軍たちではなく、二人の皇帝だった。しかも皇帝の家族までパレードに参加したという。現地の将兵たちはこれをどう思ったであろうか。この出来事が、後にローマにもたらす悲劇の引き金となるが、アウレリウスはまだ気づいていなかった。

帝国の荒廃と北方問題

パルティア遠征は勝利だけでなく、疫病(アントニヌスの疫病)をローマにもたらした。一説には500万人以上が死亡し、ローマ領内の人口はこの期間に著しく減少した。さらに、この頃はキリスト教弾圧が活発化し、剣闘士の代わりにキリスト教徒を猛獣に食わせて楽しむ風習が属州で定着しつつあった。

そんな内部の荒廃に乗じて現れたのが、北方のゲルマン諸族である。ゲルマン人の大移動は世界史では4世紀頃に習うが、紀元前から10万単位の集団で移動を繰り返していた。アウレリウスの時代にも正確な数は不明だが、相当数のゲルマン人がローマ領へ侵攻を開始し、皇帝自らが国境線であるドナウ川(ドナウ川)に張り付かざるを得なくなった。

ラテン語で国境防衛線を「リーメス」と呼ぶが、このリーメスがゲルマン人によって突破された。アウレリウスはシリアに派遣していた優秀な将軍たちを、ドナウ川近くのパンノニア総督府に呼び寄せて対応に当たらせた。

その最中、東方で問題が発生する。アルメニアでクーデターが勃発したのだ。アウレリウスはパルティア戦争で功績を挙げたカッシウスを東方総司令官に任命し、鎮圧を命じた。カッシウスは見事にアルメニア問題を解決したが、より大きな問題を引き起こすことになる。

東方司令官アウィディウス・カッシウスの反乱

なぜアウィディウス・カッシウスがこの時ローマに反旗を翻したのか、詳細は不明だ。彼はローマ皇帝に次ぐ軍事力を掌握していた。東方は西方より長くローマの支配下にあり、豊かで軍事力も強かった。自らの軍勢でローマを制圧できると考えたのか。あるいは凱旋式で見せられた皇帝一族の不敬な振る舞いに憤慨したのか。どれだけ功績を挙げても皇帝になれない現実への怒りだったのか。それら全てだったのか。

カッシウスの遺された著作には、ローマの腐敗への怒りが滲んでいる。皇帝の身内が贔屓される様を見れば、帝国の内部がいかに腐敗していたか想像に難くない。

アウレリウスはここで異例かつ適切な決断を下す。西方の軍勢を説得して味方につけ、元老院にカッシウスを「国家の敵」と認定させた。自ら東方へ出発しようとした矢先、カッシウスは部下によって殺害される。反乱は自壊した。もしカッシウスが戦いを続けていたらどうなっていたか分からないが、ひとまず危機は去った。

アウレリウスは事後処理のため急ぎ東方へ向かい、反乱参加者に寛大な処遇を与えた。この際、エジプトのムサエウムやギリシアを訪れている。『哲人皇帝』たるアウレリウスにとって、意義深い旅であったに違いない。それでもローマ皇帝に休息は与えられなかった。

息子コンモドゥスを共同皇帝に立てると、再び成果の上がらなかったパンノニア(現ハンガリー周辺)へ舞い戻る。ゲルマン諸族との戦いは熾烈を極め、将軍の一人ユリウス・ウェルスが戦死するなど多くの犠牲を払い、アウレリウス自身も病没する。若き頃から医師ガレノスを側に置き、持病を抱えていた彼は、余命幾ばくもないことを悟っていたのかもしれない。

アウレリウスは、現ウィーンの前身であるウィンドボナで死去した。享年59歳。アウレリウスの死後、ローマは急速に求心力を失っていく。崩壊の足音は、すでに鳴り響いていたのだ。

マルクス・アウレリウス・アントニヌスの個人的評価

人格者としては最高峰だが、政治家としても軍人としても、君主としても「善でも悪でもない凡庸な存在」というのが、アウレリウスに対する私の評価だ。『自省録』を見れば彼がいかに優れた人間であったかは分かる。しかし、多くの内戦を経験し、何よりローマ帝国に世襲制を持ち込んだことは大きなマイナスだ。事実、息子コンモドゥスはローマ屈指の暴君となり、時代を混迷へと導いた。

五賢帝と呼ばれる賢帝たちに血縁関係はない。ローマのような巨大帝国を統治できる人材が常に選ばれたからこそ、優れた君主が生まれたのだ。歴史上、これほど連続して名君が現れた例は稀であり、清朝の初代5皇帝(順治・康熙・雍正・乾隆・嘉慶)くらいしか比較対象がない。

「権力は腐敗させる」という言葉通り、この時点で腐敗は始まっていた。東方司令官の反乱を招いたのも、身内を固めすぎた政治が硬直化を招いたからだ。実際、アウレリウスに軍事的・政治的な顕著な功績はない。世界史の教科書には必ず登場するが、具体的に何を成し遂げたかは書かれていない。なぜなら、何もないからだ。

ピウスの治世が平和だったのに対し、アウレリウスの時代は大動乱の時代だった。天災や飢饉は避けられないとしても、ゲルマン人の侵攻やパルティア戦争の泥沼化は、アウレリウスの統治能力の低さが招いた面が大きいと言わざるを得ない。五賢帝の名を持ちながら、トラヤヌス皇帝の足元にも及ばない。暗君でも暴君でもないが、決して「大君」ではなかった。それでもなお、ローマ皇帝の中では屈指の優れた皇帝の一人であることは間違いない。