ヨーロッパの歴史

マケドニアのファランクス──古代ギリシャ人が生んだ究極の「秘密兵器」

マケドニアのファランクス──古代ギリシャ人が生んだ究極の「秘密兵器」

マケドニアのファランクスは、陣形という形で世界軍事史に決定的な影響を与えた存在です。その思想は18世紀に至るまで歴代の名将たちの用兵に影響を及ぼし続けました。「ファランクスとは融通の利かない硬直した密集隊形だった」と語られることが多いのですが、実はこれは誤解です。少なくともアレクサンドロス大王とその直後の後継者たちの時代において、ファランクスはきわめて柔軟に運用できる編成でした。

16人の中隊を積み上げた精緻な組織

ファランクスの基本単位は、16名からなる「中隊(ロコス)」でした。各列の先頭には隊長が立ち、最後尾に位置する兵士は今日の伍長に相当し、隊の統制を担いました。この中隊2つ(32名)で1つの分団が構成され、さらに中隊4つを合わせて「テトラルキア」(64名)が編成されます。

そしてテトラルキア4つが集まって256名の「連隊」となり、これこそがファランクスにおける最小の戦術単位でした。上位には連隊2つで「ペンタシアルキア」、その2つで「千人隊(キリアルキア)」、3つで「旅団(クラス)」といった大単位が置かれ、ヘレニズム時代の後継者たち(エピゴノイ)の時期には、さらに大規模な編成へと組織は発展していきました。

状況に応じて変化する陣形

ファランクスの連隊は、正面16名×縦深16名、計256名のほぼ正方形の陣形で展開されました。ただしこれは固定されたものではなく、戦術状況に応じて縦深を自在に調整できました。イッソスの戦いでは、通常16列のところを8列の薄い陣形で戦い、逆に紀元前190年のマグネシアの戦いでは、ローマ軍と対峙したセレウコス朝のファランクスが32列という厚い縦深を敷いています。

また、同一旅団の連隊がすべて隙間なく並べられていたわけでもありません。前進段階では連隊間に小さな間隔が設けられ、ここを弓兵・投石兵・投槍兵といった軽装兵が前方へ抜けて散開し、投射武器で敵を攪乱しました。そして重装歩兵の突撃が始まる直前、これら散兵は間隙を通ってファランクスの後方へと収容されたのです。

「開隊」から「閉隊」へ──接近の技術

前進の間、ファランクスは兵士同士の間隔を約1メートル空けた「開隊」状態で行軍しました。しかし敵に近づき、矢や投石が飛来し始めると、ファランクスは「閉隊」します。各兵士は正面約60センチ、すなわち自分の盾の直径ぴったりの幅を占めるのです。こうして1個連隊が呈する正面幅は10メートル弱にまで圧縮されました。

密度こそが勝利の鍵

ここにこそ、ファランクス成功の秘密がありました。わずか10メートルの正面に、マケドニア軍は256名もの兵力を投入できたのです。このうち先頭の76名が直接戦闘に従事し、残りは隊形の厚みとなって、損害が出れば即座に補充しました。これほど限られた空間にこれだけの兵力を集中できる陣形は、他に存在しませんでした。

対するペルシャ軍は、装備と戦術上の制約から、同じ10メートルの正面に集められるのは精々30名程度でした。つまりファランクスは、質的な優位に加えて、局所的かつ圧倒的な数的優位をも享受できたのです。

南ギリシャの重装歩兵(ホプリテス)でさえ、直径90センチにもなる大型の「アルゴス式盾」のせいで、ここまでの兵力集中は不可能でした。しかもホプリテスの槍は短いため、敵と直接渡り合えるのはごく最初の二列ほどに限られました。長槍サリッサを擁するマケドニア・ファランクスとの差は、まさに歴然だったといえます。

後世に残した遺産

緻密な組織、柔軟な陣形運用、そして圧倒的な兵力密度。この三要素の組み合わせにより、マケドニア・ファランクスは東方遠征において無敵の強さを発揮しました。その思想は後世の密集隊形の戦術へと脈々と受け継がれ、近代軍隊の用兵思想にまで大きな足跡を刻んだのです。