ヨーロッパの歴史

クリミア半島に消えた最後の「ギリシャ」国家――テオドロ公国の知られざる興亡

クリミア半島に消えた最後の「ギリシャ」国家――テオドロ公国の知られざる興亡

オスマン帝国は1460年から61年にかけて、モレアス専制侯国とトレビゾンド帝国というビザンツ(東ローマ)帝国の最後の後継国家を滅ぼしました。しかし実は、1475年まで存続していた、いわば「ヘレニズム的」と呼べる国家がもう一つ存在していました。その舞台となったのが、クリミア半島です。

1204年の崩壊と後継国家の誕生

1204年、第4回十字軍によってコンスタンティノープルが陥落すると、旧ビザンツ帝国の領土には数々の後継国家が乱立しました。その一つが黒海南岸のトレビゾンド帝国です。クリミア半島にあったビザンツ領も、このトレビゾンド帝国の支配下に入りました。

ゴーティアとして知られるこの地域は、14世紀初頭に独立した公国となり、首都はドロス、あるいはテオドロウと呼ばれました(現在のクリミア・マングプ)。ビザンツ側の史料では、皇帝アンドロニコス3世パレオロゴスの時代にこの公国への言及が見られます。

当時の統治者としてはディミトリオス公の名が記録されています。一部の史料によれば、彼はキリスト教化しギリシャ化したタタール人の貴族クイタニだったとされます。1361年には公国は「テオドロウ」(聖テオドルに由来する名称)と呼称され、これは1374年のジェノヴァ側の史料でも裏付けられています。1420年には、公国の統治者の正式な称号は「パラタラシア(海辺の)都市のテオドロス」とされ、この国家を「テオドリツィ」と呼ぶ者もいました。

ティムールの襲来と公国の復興

1395年、ティムール(タメルラン)がクリミアに侵入し、テオドロの首都を破壊しました。しかし公国は見事に復活を遂げ、地域有数の強国へと成長します。最大の敵はジェノヴァでした。1432年のヴェネツィア・ジェノヴァ戦争では、公国は当然ながらヴェネツィアを支援しました。また、公国はジョチ・ウルス(金帳汗国)のモンゴルに朝貢することで、地域最強の勢力との友好関係を維持しました。歴代の公たちは、現在のインケルマンにあたる港を築き上げています。

テオドロ公たちと国民の姿

公国の住民は極めて多様でした。ギリシャ人、クリミア・ゴート族、アラン人、ブルガリア人、クマン人、キプチャク人などで構成されていたのです。住民はギリシャ化し、公用語はギリシャ語、主流の宗教は正教でした。ビザンツ美術と建築が広く浸透し、統治者の紋章は双頭の鷲でした。

ロシアのビザンツ学者ヴァシリエフも、ディミトリオス公について、彼がキリスト教化・ギリシャ化したタタール人だったとする見解を採用しています。後継者たちが同じ出自を持っていたかどうかは不明で、彼らの名はロシア側の史料からしか知られていません。ディミトリオスの後を継いだのはバシレイオスで、次いでその息子ステファノスが即位しました。

歴代の統治者たち

ステファノスの後継者はアレクシオス1世、続いてヨアンニスです。ヨアンニスはビザンツの貴族女性マリア・アサニナと結婚しました。その後を息子のウルベイが継ぎます。アレクシオス1世の娘マリア・オブ・ゴシア(ゴーティアのマリア)は、トレビゾンド最後の皇帝ダヴィド大公に嫁いだことでも知られています。

ウルベイの後には、イサキオスが公として登場します。彼はモルダヴィアの君主と同盟を結び、トルコの脅威に対抗しようとしました。ところが方針を転換してトルコ側に接近したため、弟アレクサンドロスによって廃位されました。しかしこれをもってしても、公国の運命を変えることはできませんでした。

1475年――公国の最期

1475年、オスマン帝国軍がクリミアに侵攻し、公国はついに滅亡しました。首都マングプは3か月に及ぶ包囲戦の末に陥落しました。

アレクサンドロス公は捕らえられてコンスタンティノープルへ送られ、斬首されました。息子は強制的にイスラム教へ改宗させられ、娘はメフメト2世のハレムに入れられたといいます。

クリミア半島に消えた最後の「ギリシャ」国家――テオドロ公国の知られざる興亡クリミア半島に消えた最後の「ギリシャ」国家――テオドロ公国の知られざる興亡

上の図版は、この国家の紋章(双頭の鷲)です。

こうして、コンスタンティノープル陥落後もなお黒海の北岸で命脈を保っていた「最後のギリシャ国家」は、クリミアの歴史の中に静かに幕を下ろしたのです。