結論から言えば、ネビル・チェンバレンとアドルフ・ヒトラーが第二次世界大戦で同じ側に立つことはありませんでした。チェンバレンは開戦当初のイギリス首相であり、ヒトラーはナチス・ドイツの総統(指導者)でした。イギリスとドイツは開戦後、互いに敵対する陣営に属しており、チェンバレン自身もヒトラーの政策に対しては強い批判者でした。
なぜ「同じ側」という誤解が生まれるのか
このような疑問が生まれる背景には、チェンバレンが推し進めた「宥和政策(アピーズメント)」の存在があります。これは、当時台頭していたナチス・ドイツとの衝突を避けるため、譲歩を重ねて平和を維持しようとする外交路線です。
ミュンヘン会談と「我らの時代の平和」
1938年9月、チェンバレンはミュンヘン会談においてヒトラーと直接対面し、チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツに割譲することで合意しました。帰国後、彼は空港で「我らの時代の平和(Peace for our time)」という有名な演説を行い、多くの人々に一時的な安堵をもたらしました。
このようにヒトラーと握手を交わした姿は印象的であるため、「二人は協力関係にあったのではないか」と誤解されることがあります。しかしこれはあくまで戦争回避のための外交的妥協であり、同盟や共闘とは全く異なるものでした。
宣戦布告――明確な敵対へ
宥和政策は最終的に破綻しました。1939年3月、ドイツはチェコスロバキアの残りの地域を併合し、さらに同年9月1日にはポーランドへ侵攻します。これを受け、チェンバレンは9月3日にラジオ放送を通じてドイツに対する宣戦布告を発表しました。
この瞬間、イギリスとナチス・ドイツは正式に交戦状態に入り、チェンバレン率いるイギリスはポーランド、フランスなどとともに連合国側の中核として戦うことになりました。
チェンバレンの辞任と晩年
開戦後、ドイツ軍の快進撃を許す中で、特にノルウェー方面での作戦失敗が批判を集めました。チェンバレンは1940年5月10日に首相を辞任し、ウィンストン・チャーチルがその後任となりました。彼は同年11月9日に病気のため亡くなりましたが、その死因の一つとされるのは、戦時下での過酷な職務による心身の消耗だったと言われています。
まとめ
ネビル・チェンバレンとアドルフ・ヒトラーは、決して第二次世界大戦で同じ側にいたわけではありません。むしろチェンバレンは、宥和政策によって戦争を回避しようとしたものの、その試みが失敗した後はドイツに宣戦布告し、イギリスを戦争へと導いた指導者です。ミュンヘン会談での握手が象徴的であるため誤解されやすいものの、歴史的事実としては両者は明確に敵対関係にあったのです。