第一次世界大戦後、イタリア民族主義者が不満を抱いた背景
第一次世界大戦は1918年に終結し、翌1919年以降、パリ講和会議においてヴェルサイユ条約をはじめとする一連の平和条約が締結されました。イタリアは連合国側として参戦した勝利国の一つでしたが、戦後に期待していた領土を十分に手に入れられなかったことが、国内に深刻な不満をもたらしました。
「傷つけられた勝利」と呼ばれた戦勝
イタリアは1915年のロンドン密約において、南チロル、トリエステ、ダルマチア地方などの領土獲得を連合国から約束されていました。しかし講和会議では、ウィルソン米大統領が提唱した民族自決の原則が重視された結果、イタリアの要求はほとんど認められませんでした。戦勝国でありながら見返りが少ないこの状況は、後に「傷つけられた勝利(vittoria mutilata)」と呼ばれるようになりました。
特に問題となったフィウメの帰属
民族主義者たちを最も激しく刺激したのが、アドリア海沿岸の港町フィウメ(現在のクロアチア・リエカ)の扱いです。フィウメには多数のイタリア系住民が暮らしていましたが、同市は新興国家ユーゴスラビア(セルビア・クロアチア・スロベニア王国)側に帰属させられることになりました。これに反発した詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオは、1919年に義勇兵を率いてフィウメを武力占拠するという過激な行動に出て、国内外に大きな衝撃を与えました。
ムッソリーニとファシズム台頭への道
「勝利したのに報われない」という国民感情は、政府や既成政党への強い不信へと発展していきました。こうした不満を巧みに取り込んだのがベニート・ムッソリーニです。彼は国家ファシスト党を率いて、強力な指導者による国家の再生と領土拡張を掲げて支持を拡大し、1922年のローマ進軍を経て政権を掌握します。
つまり、第一次世界大戦後の平和条約に対するイタリア民族主義者の不満は、単なる領土問題にとどまらず、その後のイタリアにおけるファシズム台頭という歴史の大きな転換点につながっていったのです。