1945年2月のヤルタ会談から7月〜8月のポツダム会談にかけて、第二次世界大戦の勝利を目前に控えた連合国(米英ソ)の関係は急速に冷え込みました。かつて「ビッグスリー」と呼ばれた首脳たちの協力関係は崩れ、戦後世界をめぐる対立が表面化していきます。ここでは、この数ヶ月の間に緊張が高まった主な理由を4つの観点から解説します。
1. ドイツの処遇をめぐる対立
ヤルタ会談では、連合国はドイツを米・英・ソ・仏の4カ国による占領地域に分割することで原則的に合意していました。フランスには、英米の占領区域から比較的小さな区域が割り当てられる予定でした。
しかし、ポツダム会談の時点では状況が一変していました。ソ連は自国の占領区域内での支配を強化し、東ドイツに親ソ的な共産主義政権の基盤を築くとともに、農業の集団化を強行し始めたのです。
こうした動きに対し、西側諸国はソ連の拡張主義とヨーロッパ全土への共産主義の波及を強く懸念するようになりました。ドイツの民主化と復興という西側の構想との間に、埋めがたい溝が生まれていきます。
2. ポーランド・ドイツ国境問題
ヤルタ会談では、ポーランドの東部国境を西側へ調整する代わりに、ドイツの領土を西部の補償としてポーランドに与えることが合意されていました。これはいわゆる「国境の西移動」と呼ばれる構想です。
ところが、新しい国境線をどこに引くかが深刻な争点となります。ソ連はポーランド・ドイツ国境をオーデル・ナイセ線まで大きく西へ移動させることを主張しました。これにより、石炭や鉄鋼産業で栄えたシレジア地方など、ドイツの重要な工業地帯がポーランドの支配下に入ることになります。
一方、西側諸国はソ連にこれほど大きな領土的利益を与えることには消極的でした。さらに、ポーランドの大幅な西移動は、数百万人規模のドイツ人住民の追放と移住を意味するため、人道的な問題も懸念されました。
3. 米ソ関係の全面的な悪化
ポツダム会談が開催される頃には、ソ連と西側諸国の関係は複数の要因が重なり、著しく悪化していました。主な要因は以下の通りです。
- 東欧諸国におけるソ連の影響力拡大と権力の固定化
- ポーランドなど東欧での自由選挙の実施をめぐるソ連の拒否姿勢
- ドイツの将来像(賠償方式、経済体制など)に関する見解の相違
- 相互の不信感と猜疑心の深まり
特に、ヤルタ会談で約束された「解放されたヨーロッパ宣言」に基づく自由選挙が実現しなかったことは、西側諸国の強い反発を招きました。その結果、ポツダム会談での交渉は終始ぎこちなく難航し、会談は多くの懸案を解決できないまま閉幕することになります。
また、会談中にはイギリスの総選挙でチャーチルが敗北し、後半はアトリー首相が交代で出席するという出来事もあり、西側の結束にも揺らぎが生じていました。
4. マンハッタン計画の暴露
ルーズベルト大統領の死去を受けて就任したトルーマン大統領は、ポツダム会談の最中、ソ連のスターリン書記長に対し、原子爆弾を開発する極秘計画「マンハッタン計画」の存在を初めて明かしました。
ただし、トルーマンは詳細を語らず「強力な新型爆弾」の存在をほのめかす程度にとどめたとされています。一方のスターリンも、すでにスパイ網を通じて原爆開発の情報をつかんでいたため、驚きを見せなかったといわれています。
それでもこの暴露は重大な転換点となりました。ソ連は核兵器が持つ圧倒的な威力と破壊力を痛感し、自国での核開発を加速させます。ここから米ソ両超大国による軍拡競争が始まり、緊張はさらに高まっていきました。
まとめ:冷戦への序章
ヤルタ会談からポツダム会談の間に緊張が高まった主な理由は、①ドイツの処遇をめぐる対立、②ポーランド・ドイツ国境をめぐる争い、③米ソ関係の全般的な悪化、④マンハッタン計画の暴露、の4点に整理できます。
共通の敵であるナチス・ドイツを失いつつあった連合国にとって、これらの問題は理念と利害の違いを浮き彫りにしました。ヤルタでの協調の雰囲気は消え去り、ポツダム会談は事実上、東西対立=冷戦の始まりを告げる場となったのです。