ヨーロッパの歴史

パトリック・ヘンリーは憲法が批准されたらどうなると考えたのか?――強大な中央政府への深い懸念

パトリック・ヘンリーが予見した「憲法批准後の未来」

アメリカ合衆国憲法(1787年)の批准に真っ向から反対した政治家パトリック・ヘンリーは、「憲法が批准されれば、個人の自由と州の権利を脅かす強力な中央政府が誕生する」と確信していました。独立戦争で「自由か死か(Give me liberty, or give me death!)」という有名な言葉を残した彼にとって、中央集権化はまさに革命で闘って勝ち取った自由を失う危機だったのです。

ヘンリーの反対意見は、主に次の三点に集約されます。

1. 連邦政府への権限の過度な集中

ヘンリーは、新憲法が連邦政府にあまりにも大きな権限を与え、一方で州政府の権限を不当に弱めていると主張しました。各州が主権を持つ緩やかな連合(ポトマック川の下での「諸州の連合」)こそが自由を守る形だと考え、強力な国家政府の設立は専制政治への道になると警告したのです。

2. 権利章典(権利法案)の欠如

もう一つの重大な問題として、当時の憲法草案には個人の自由を明示的に保障する「権利章典(Bill of Rights)」が含まれていなかったことが挙げられます。言論の自由や宗教の自由といった基本的権利が成文で保証されなければ、政府はそれらを侵害しかねない――これがヘンリーの強硬な反対理由の一つでした。

3. 富裕層・権力者による支配と民衆抑圧への不安

さらにヘンリーは、新しい政府が富裕層や特権階級の手に握られ、一般民衆を抑圧する道具として使われることを恐れていました。政府の権力が強大になるほど、それを私利私欲のために利用する者が出てくると考えたのです。

「反連邦主義者」としての歴史的影響

ヘンリーのこうした主張は、ジェームズ・モンローやジョージ・メイソンらとともに「反連邦主義者(Anti-Federalist)」と呼ばれる勢力の代表格となりました。1788年のバージニア州批准会議でも激しく論争しましたが、結局バージニア州は権利章典の追加を条件付きで憲法を批准することになります。

皮肉なことに、ヘンリーらの強烈な反対運動こそが、後の合衆国憲法修正第1条から第10条にあたる「権利章典」(1791年)の制定を後押しすることになりました。個人の自由と州の権利を守るという彼の信念は、今日のアメリカ合衆国の憲政の基盤の一つとして受け継がれているのです。