イシン王国の王と一人の庭師
紀元前1805年から1799年(短期年代論による)、あるいは紀元前1868年から1861年(中期年代論による)にかけて、現在のイラク、ニップルの南約32キロに位置するシュメール都市国家イシンでは、エッラ・イミッティ(Erra-Imitti)という王が統治していた。
彼の名前は「エッラに従う者」といった意味を持つ。エッラとは戦争や騒乱、政治的混乱をつかさどる神であり、バビロニア人からは「疫病神」と呼ばれていた。
在位8年目のある日、祭司たちが日食の接近を告げた。そこでエッラ・イミッティはいつものように、この天体現象が続く間だけ自分の玉座に座ってくれる人物を探した。そうしなければ、王自身の命に関わるからである。彼が見つけたのは、エンリル・バニ(Enlil-bani)という名の庭師の一人だった。

思いがけない結末
当日、エンリル・バニは王として即位し、玉座に座って自らの運命の時を待った。その運命とは、日食の終わりとともに生贄として捧げられることであった。ところが、思いもよらぬことが起こる。身代わりとして座っている間、本物の王は熱い粥などをすすりながら静かに待っていたのだが、突如として息絶えてしまったのである。心臓発作だったのか、それとも別の理由だったのか。
日食が過ぎ去ると、祭司たちは決まりに従ってエンリル・バニに玉座を明け渡すよう命じた。しかし彼はこれを拒否した。「すでに王は一人、生贄として捧げられたのだ。しかも私は正式に即位しているのだから、今や私こそ正統な君主である」と。祭司たちもこの主張に同意し、エンリル・バニはその後24年間、王として君臨したという。

伝説の裏にある「代理王」儀礼
この物語は、はるかに後世のバビロニア語写本からのみ知られており、実際にこういう経緯だったとは限らない。むしろ一種の伝説であり、おそらく後世の創作要素も含んでいるだろう。だが、その背景には極めて古い慣行、すなわち「代理王の儀礼」の存在が浮かび上がってくる。この慣行は数多くのシュメール語文献にも反映されている。
その一つが、現在ブリティッシュ・ミュージアムが所蔵する三枚の楔形文字粘土板である。これは1958年、アッシリア学者ウィルフレッド・G・ランベルト(Wilfred G. Lambert)が「代理王の儀礼の一断片(A part of the Ritual for the Substitute King)」という論文で発表したものだ。
先に触れたとおり、アッシリア人やバビロニア人は、悪い兆しが王に降りかかると予言された場合、別の人物(通常は出自の低い者、捕虜、奴隷など)を玉座に座らせてその災厄を受け止めさせ、本物の王の安全を守ると考えていた。

代理王に与えられた特権と、イクカルと呼ばれた本物の王
代理の期間中、新しい王には一定の自由が与えられた。これはあくまで「交代劇」を演出するためのものであり、実効的な統治権力ではない。彼には代理の王妃が添えられ、気晴らしのための小さな宮廷も用意された。一方、本物の王はその間「農夫(ikkaru/イクカル)」と呼ばれた。
代理王の使用が文献上確認できるもう一つの事例は、紀元前681年から669年の期間である。この時期、新アッシリア帝国では、後にアッシリア最後の偉大な王となるアッシュールバニパルの父、エサルハドン(Esarhaddon)が統治していた。著名な英国のエジプト学者I.E.S.エドワーズが『ケンブリッジ古代史』で指摘しているように、当時の書簡には、エサルハドンが在位晩年に少なくとも三度代理王を立てざるを得なかったことが記されている。
興味深いことに、交代は日食の継続期間だけでなく、短い期間にわたって行われることもあり、粘土板には100日間続いた事例が明記されている。
テベトゥ月15日の月食とダムキー
その一つは、紀元前671年、テベトゥ月(12月~1月に相当)15日の月食の際に行われた。粘土板には、従うべき手順の詳細な指示のほか、代理王の必要をもたらしうる各惑星・恒星の食に関する記述、さらにはこの制度が古くから存在していたことを示唆する言及まで残されている。
また、粘土板の一つには、バビロン駐在の王の代理人が送った書简も収められており、代理王とその妃が生贄として捧げられた後に起きた騒乱について報じている。このとき代理に選ばれたダムキー(Damqî)なる人物は無名の存在ではなく、バビロンのマルドゥク神殿エサギラの大祭司の息子だったらしい。彼はエサルハドンの子でバビロンを統治していたシャマシュ・シュム・ウキンの身代わりに選ばれたが、この人事は、アッシリアの支配に抵抗するバビロニア人の間に恐慌を広げるための手段でもあったようだ。
ペルシャにも残る慣習――クセルクセスとアルタバノス
それからほぼ二世紀後、ペルシャ人がこの慣習を保ち続けていた様子がうかがえる。ヘロドトスによれば、紀元前480年にギリシャ侵攻を控えたクセルクセスは、恐ろしい夢に悩まされ、同じ手を使って叔父のアルタバノスを玉座に座らせたという。皮肉なことに、後にクセルクセスを殺害したのは、近衛隊長を務めていた同名の別のアルタバノスであった。
代理王になれば何を意味するのかを嫌々ながらも悟りつつ、アルタバノスはクセルクセスの望みを受け入れ、玉座に就いた。ヘロドトスは次のように語っている。

この逸話は儀礼の真正な実例とは言えないが、同一の慣習の変形である可能性を示唆する要素をいくつも含んでいる。
アレクサンダー大王と玉座の男
さらにアレクサンダー大王の時代になると、ギリシャ人にとってはまったく例外的な出来事が発生した。それは2世した。それは2世紀のギリシャ歴史家フラウィウス・アリアノス(Flavius Arrianus)が『アレクサンドロス大王東征記(Anabasis of Alexander the Great)』の中で語っているものである。
出来事が起こったのは紀元前323年5月、アレクサンダーがバビロンを出てアラビアへ向かう直前だった。ギリシャ人には何が起きたのか理解できなかったが、その説明は単純である。あの男はアレクサンダーの玉座を簒奪しようとしたのではなく、むしろその逆だった。「代理王」という古い慣習に従い、マケドニア王に待ち受けているかもしれない災厄をすべて自分へ引き寄せようとしたのである。
おそらくバビロニアの占星術師たちが日食を予告しており、「代理王」の登場が必要となっていたのだろう。宦官たちは事情を心得ており、何をすべきか分かっていた。だからこそ、玉座の「簒奪者」を追い出さなかったのである。しかしギリシャ人には、何が進行しているのか皆目見当がつかなかった。

旧約聖書研究への波及
最後に、創造論者の間で議論を呼ぶ創世記の解釈で知られるホイートン大学教授の旧約聖書学者ジョン・H・ウォルトン(John H. Walton)も、2003年に『Journal of Biblical Literature』誌に発表した論文でこの「代理王」儀礼を取り上げている。
ウォルトンはその中で、聖書の『イザヤ書』に収められ、贖罪的な苦しみを受ける「僕」について語る一連のテキスト、いわゆる「僕の歌(Songs of the Servant)」は、古代メソポタミアの伝統に照らして解釈できると主張している。
「僕の歌」においてこの人物が「主(ヤハウェ)の僕」と呼ばれていること、そして伝統的に受け入れられてきたキリスト教の解釈がこの一連の預言をナザレのイエスに適用していることを考え合わせれば、もしウォルトンの説が正しければ、その含意は旧約聖書の枠をはるかに超えるものとなりうる。ただし、それはまた別の話である。