シチリア西端の要衝、リリュバエウム
第一次ポエニ戦争(紀元前264年〜紀元前241年)については、すでにエクノムス岬の海戦や傭兵将軍クサンティッポスの活躍を扱った記事で触れてきた。それらの記事でも言及された、戦争の帰趨を大きく左右した出来事の一つが、シチリア島西端の都市リリュバエウム(現マルサラ)を巡る約10年にわたる長期包囲戦である。
フェニキア人の植民地からカルタゴの要塞へ
現在のイタリア・シチリア州トラーパニ県に位置するマルサラ(人口約8万5千人)は、古代ではリリュバエウム(リリベア)と呼ばれた。ボエオ岬(カーペ・ボエオ)に突き出たこの地は、シチリア島の最西端にあたり、アフリカ大陸(チュニジア)まで最短距離で約140キロメートルという戦略的要衝であった。
この地の歴史は古く、前4世紀末にシラクサの僭主ディオニュシオス1世によって破壊されたフェニキア人の最初の植民都市モティア(サン・パンタレオ島)の生存者たちが、カルタゴの支援を受けてボエオ岬に建設したのがリリュバエウムの始まりである。その重要性を認識したカルタゴは、最初から強固な城壁と防御施設を整備した。早くも紀元前276年、エピロス王ピュロスがシチリアからカルタゴ勢力を駆逐しようとこの都市を包囲したが、海からの補給を受けた守備隊の粘り強い抵抗の前に2ヶ月で撤退を余儀なくされている。
ローマの台頭と膠着する戦局
しかし、平穏は長くは続かなかった。イタリア半島統一を果たしたローマが海を越えて拡大を始め、西地中海の覇者カルタゴ(イベリア半島南部、コルシカ、サルデーニャ、バレアレス諸島、シチリア西部を支配)と衝突するのは必然だった。
戦端はメッシーナの支配権を巡って開かれた。ローマはシュラクサイから同都市を占拠していたカンパニア人傭兵マメルティニの要請を口実に介入し、戦争は長期の消耗戦へと突入した。当初は強力な艦隊を擁し、海上補給線を確保しながら傭兵軍で戦うカルタゴが優位に見えた。
ローマの海軍建設と「コルウス」の衝撃
紀元前260年、ローマは制海権の重要性を痛感し、拿捕されたカルタゴ船を模倣して大艦隊を建造。しかし初陣のリパリ諸島攻略戦ではハンニバル・ギスコンに大敗し、「船を持つだけでは勝てない」ことを思い知らされる。この教訓からローマはコルウス(渡り板)を考案・装備し、海戦を得意の歩兵戦に持ち込む戦術を確立。ミラエ沖とスルキ沖の海戦で勝利し、リパリ諸島とマルタを手中に収めた。そして紀元前256年、エクノムス岬の決戦で大勝し、遂にアフリカ大陸上陸を果たす。
シチリア西端へ追い詰められたカルタゴ
一方シチリアでは、ローマ軍団がアクラガス(アグリジェント)、パノルムス(パレルモ)、イエタス、ソルント、ペトラ、ティンダリス、セリヌス、ヘラクレア・ミノアを次々と落とし、カルタゴ軍を島の最西端へ追い込んだ。残った抵抗拠点は北のドレパナ(トラーパニ)と南のリリュバエウムの二都市のみ、両者はわずか40キロメートルの距離にあった。ローマはまず南のリリュバエウム攻略に全力を注ぐことを決断。紀元前250年のことである。
10万対1万4千、始まる長期包囲戦
執政官ガイウス・アティリウス・レグルスとルキウス・マンリウス・ウルソは、4個軍団と同盟軍を合わせ約10万の大軍、さらに200隻の艦隊を率いてリリュバエウムに迫った。対する守将ヒミルコは、歩兵7,000と騎兵700(多くはギリシャ人とケルト人の傭兵)で籠城した。数では圧倒的不利だが、ピュロスを退けた強固な城壁・塔・巨大な空堀からなる防御システムがそれを補っていた。
攻防の膠着とローマの苦境
ローマの卓越した攻城技術により空堀は埋められ、投石機・破城槌が配備され、複数の塔が破壊された。しかし守備隊の頻繁な出撃妨害と、包囲軍側に蔓延した疫病により戦況は泥沼化。傭兵の脱走が相次ぎ、ヒミルコは高額な報奨金を約束して辛くも士気を保った。
執政官らは何度も総攻撃を命じたが悉く撃退される。そんな折、エガディ諸島に潜伏していたカルタゴ艦隊が増援数千と物資を積み、難攻不落の天然の良港(砂州があり水先案内人が必要)へ突入してきた。ローマ艦隊は座礁を恐れ追撃を躊躇うしかなかった。
ヒミルコの夜襲と封鎖の失敗
増援を得たヒミルコは夜襲を敢行するが、ローマの警戒は厚く失敗。ローマは港口に船を沈めて封鎖を試みるが、カルタゴの軽快なガレー船と熟練の漕ぎ手たちがこれをかいくぐった。「壁を壊せば新たな壁が築かれ、突破口が開けば出撃で塞がれる」——攻防の綱引きは永遠に続くかに見えた。
包囲軍の方が苦しい皮肉
包囲戦の常として、次第に包囲するローマ軍の方が窮地に陥った。海から新鮮な食糧が入る守備隊に対し、軍団は慢性的な補給不足に喘いだ。暴風雨で破城槌と攻城塔の屋根が吹き飛ばされ、ヒミルコはこの強風を利用して火攻めを仕掛け、ローマ陣営の大部分を焼き払った。
ローマは土木の柵を築いて出撃を牽制し、直接攻撃を諦めて飢餓作戦へ転換。新執政官プブリウス・クラウディウス・プルケルとルキウス・ユニウス・プッルスは、北のドレパナ(守将アドルバル)へ目を向け、ここからリリュバエウムへの海上補給線を断とうとした。
ドレパナの海戦とプルケルの失態
アドルバルの傭兵たちは「長期籠城か、一か八かの決戦か」の選択を迫られ、後者を選択。プルケルが派遣した封鎖艦隊に正面から挑み、大勝を収めた。アドルバルは部将カルタロンに艦隊を託しリリュバエウム救援へ向かわせ、ここでもカルタゴが勝利。プルケルは「神鶏が餌を啄ばまない」という凶兆を無視し「食わねば飲ませろ!」と海へ投げ捨てた逸話の通り、後にローマで多額の罰金刑に処された。
ハミルカル・バルカのゲリラ戦と両国の消耗
同年紀元前249年、ハミルカル・バルカ(ハンニバルの父)がシチリア司令官として着任。彼は3年間にわたるゲリラ戦でローマを翻弄し、エリクス(エルチェ)を占領。同地のヴィヌス神殿がある山頂のローマ守備隊を包囲しつつ、自身も麓で軍団に包囲されるという「二重包囲」の奇策を展開した。ローマ軍は身動きが取れなくなった。
双方とも死傷者が膨大で補充が追いつかず、農業と商業が停滞して財政は破綻寸前。それでも紀元前243年、ローマ元老院は私財を募って新艦隊を建造。カルタゴも対抗して艦隊を整備し、決戦で決着をつけようとした。
エガディ諸島沖海戦——運命の決着
紀元前241年5月、両艦隊はエガディ諸島沖で激突。執政官ガイウス・ルタティウス・カトゥルス率いる200隻のクィンクレメスは、もはやコルウスを必要としないほどの航海術を身につけていた。対するハンノ「大王」は50隻多い250隻を擁したが、熟練水夫が不足し、訓練不足の乗員では太刀打ちできなかった。
講和とリリュバエウムの陥落
この海戦の勝利は全てを決した。リリュバエウムへの補給路は絶たれ、カルタゴは再建に時間を要する艦隊を失った。カルタゴ元老院はハミルカル・バルカに講和交渉を命じたが、彼はシチリアでの戦況が尚も優位と判断し拒否。代わってリリュバエウム守将ヒミルコの後任ギスコン(サルデーニャで敗れ自軍に磔刑にされたハンニバル・ギスコンとは別人)がルタティウス条約を締結した。
条約によりカルタゴはシチリアを含む西地中海の諸島を割譲、捕虜返還、2,200タレントの賠償金(10年払い)と即時1,000タレントの支払いを呑んだ。リリュバエウムはローマの手に渡り、シチリアに残る全兵力の海上撤退猶予が与えられた。「入港の港から出港の港へ」——第一次ポエニ戦争の終結を象徴する、これ以上ない皮肉な結末であった。