アイルランドの修道士が開いたスイスの大修道院
ザンクト・ガレン(サンクト・ガレ)修道院は、613年、アイルランド出身の修道士ガルス(聖ガルス)によって、現在のスイス・ザンクト・ガレン市にあたる土地に創建されました。以後数百年にわたり、ヨーロッパ有数のベネディクト会修道院として栄えることになります。

カロリング朝の庇護と「世界一美しい図書館」
小ピピンやその息子カール大帝の庇護のもと、修道院は学芸の中心地として大きく発展しました。大陸各地から集まった修道士たちが写本の筆写作業に励んだ結果、質量ともに重要な文書庫が形成されます。この蔵書は今日まで受け継がれ、約16万冊に及ぶコレクションはスイス最古のものとなっています。18世紀に建てられた現在の書庫大広間は、「世界で最も美しい図書館の一つ」と称されています。

西ローマ帝国滅亡後、13世紀まで唯一現存する大型建築設計図
同修道院が所蔵する至宝の一つが、いわゆる「ザンクト・ガレン平面図」です。中世盛期をはじめとする長い時代を通じて類を見ない建築図面であり、実際、西ローマ帝国滅亡から13世紀に至るまでの間で現存する唯一の大型建築設計図とされています。
作成年代は820〜830年頃。当時の修道院は、カール大帝の息子である皇帝ルートヴィヒ1世(敬虔王)の支配下にありました。約700年間にわたって唯一無二の存在であるだけでなく、この図面には興味深い謎がいくつも残されています。設計者も目的も分かっていないこと、計画は一度も実現しなかったこと、そして12世紀には修道士たちがその裏面に聖マルティヌスの伝記を書き記していたことなどです。しかし、それだけではありません。
5枚の羊皮紙につづられた理想の修道院像
平面図は、縫い合わせた5枚の羊皮紙に描かれており、寸法は113×78センチメートル。赤インクで描かれた修道院複合施設には、修道院教会、回廊、院長の住居、修道士の宿舎のほか、学校、迎賓館、巡礼者の宿、修練院、厩舎、厨房、作業場、醸造所、施療院、墓地、果樹園、菜園に至るまでが含まれています。専門家の試算によれば、この計画された複合施設には、修道士約110名、来訪者約115名、職人や農民約150名を収容できたとされます。

ライヒェナウの修道士による300超の注記
さらに、各建物の機能を説明する300以上の注記が茶色のインクで書き加えられています。筆記者は二人の別人であり、筆跡の比較検討の結果、彼らがザンクト・ガレンではなく近隣のライヒェナウ修道院(北西約52キロ、ボーデン湖の島に位置し、724年創建)の修道士であったことが判明しました。
しかも、片方の筆記者はライヒェナウの司書レギンベルトと特定されています。彼は820年頃に『象徴の書』と呼ばれるコデックスを著した人物です。

添えられた献呈の言葉
図面には、当時の院長ゴッツベルトゥス(あるいは同名の修道士)へと捧げる献辞が記されています。
なぜ描かれたのか――対立する二つの説
宮廷の原本を写したものとする説
ウォルター・ホーンやアーネスト・ボーンらの歴史家は、この図面はルートヴィヒ敬虔王の宮廷で作られた原本の写しであると考えます。皇帝は帝国内に修道院ネットワークを築こうとし、ベネディクト会則に沿った建築の指針を示したのだというのです。

ライヒェナウでのオリジナル制作説
一方、ヴェルナー・ヤコブセン、ノルベルト・スタフラ、ローレンス・ニースらは、この図面をライヒェナウ修道院で制作されたオリジナルとみなします。おそらく820年代に新しい教会堂を建てようとしたザンクト・ガレンの院長からの依頼によるものでしょう。その根拠となるのは、羊皮紙にコンパス使用の痕跡が残っていること、そして描画の過程で加えられた修正や変更の跡が確認できる点です。実際、新しい教会堂の建設工事は830年に始まったことが知られています。
王家の修道院を示す手がかり
当時、ライヒェナウは王室直属の修道院でしたが、ザンクト・ガレンはコンスタンツ司教の管轄下に置かれていました。また、アルフォンス・ツェットラーによれば、図面の下部には大きな王宮が描かれているといいます。これはサン=ドニのような王室大修道院にのみ見られる要素です。
ただし、そこには「王宮」の名はなく、「賓客接待の家」と記されています。ツェットラーは、教会の反対側にもう一つ、巡礼者や貧しい人々のためのホスピス(施療所)が描かれていることから、前者はむしろ君主の訪問を受け入れるための建物だったと推測しています。

縮尺と身分による空間の区分け
図面の縮尺も完全には解明されていません。全体が同一縮尺なのか、一部の要素が異なる縮尺で描かれているのかは定かではなく、一般には1:192(1フィートの1/16)とされています。専門家たちが一致して認めているのは、社会的身分に応じて空間が明確に区別されているという点です。
リンダ・クーンの分析によれば、北西部には世俗エリートのための建物が配され、南西部は下層階級に充てられています。一方、聖なる領域も分割されており、北東部と南東部は修道院のエリート層に、さらに東側と南側は修練士(新参の修道士)に割り当てられているのです。
実現しなかった「理想の王立修道院」のビジョン
今日では、この図面は特定のカロリング朝修道院の配置図や実施計画を示すものではなく、描かれた修道院複合施設はザンクト・ガレンでも他のどこでも建設される予定はなかったと考えられています。それは、829〜830年のアラマンニア王国(Regnum Alamannorum)特有の政治状況の中で、ライヒェナウとザンクト・ガレンの両修道院の関係性の中で構想された、「偉大な王立修道院のあるべき姿」を描いたビジョンだったのです。

1200年の時を経て現代によみがえる建設プロジェクト
数年前、熱心な愛好家たちのグループが、バーデン=ヴュルテンベルク州メスキルヒ(ボーデン湖のほど近く)で、ザンクト・ガレン平面図に描かれた内容を実現しようとする建設プロジェクト「キャンパス・ガリ(Campus Galli)」を立ち上げました。参加者は当時の技法と道具のみを使って工事を進めており、2013年からはテーマパークとして一般公開され、レストランや宿泊施設などの収益で事業資金を賄っています。公式サイトでは、各建物の機能がひと目で分かる平面図のバージョンを見ることができます。