第二次世界大戦の戦いとなると、スターリングラードやベルリン、エル・アラメイン、真珠湾、ガダルカナル、アルデンヌといった、誰もが一度は耳にしたことのある戦場の名前が思い浮かぶだろう。しかし、戦争の行方を左右するほどの重大な意義を持ちながら、あまり知られていない戦いも存在する。1940年春のフランスの戦い(バトル・オブ・フランス)の中で繰り広げられた「リール包囲戦」もその一つだ。この戦いは、ダンケルクからの撤退を可能にするうえで不可欠な役割を果たした。

ウィンストン・チャーチル自身も、著書『第二次世界大戦』の中でこの戦いを「極めて重要」と評している。多くの従軍記者や歴史家もこれを裏付けており、リールでフランス第4軍団と第5軍団が見せた粘り強い抵抗は、多数のドイツ軍部隊をほぼ4日間にわたって釘付けにし、イギリス海外派遣ギリス海外派遣軍(BEF)に貴重な時間をもたらした。一部の研究者の推定によれば、この時間のおかげで、当初の計画より最大10万人多い兵士を救出できたという。
海からの撤退という賭け
リールはベルギー国境に近いフランス北部(オー=ド=フランス地域圏)の内陸都市で、海岸沿いのダンケルクから約65キロメートル離れている。1940年春、ベルギーでドイツ軍の進撃を食い止めようとしたフランス軍とBEFの試みが失敗すると、後方への撤退は補給面でも地理的にもあまりに困難であることが明らかになった。そこで選ばれたのが、大胆かつ危険な代替案――海上からの部隊撤収だった。
もちろん、それも容易な話ではなかった。撤収すべき兵力は数万人と見積もられていたが(実際には後に数十万人規模となり、この読みは外れることになる)、敵が止めどなく押し寄せる前に迅速に実行しなければならなかった。幸い、イギリス海軍はすでに船舶の手配を進めており、「ダイナモ作戦」が始動した。さらに天候もBEFに味方した。電撃戦(ブリッツクリーク)の生みの親として知られるハインツ・グデーリアン将軍の機甲部隊は悪天候に足を引っ張られ、加えてヒトラーの指示を受けて前進を控えるよう命じたフォン・クルーゲ元帥との対立も、ドイツ軍の速度を鈍らせる一因となったのである。
目まぐるしく展開した8か月
こうした出来事は、わずか8か月の間に目まぐるしい速さで進んだ。BEFは1939年9月、第一次世界大戦の古参で武勲に輝いたジョン・ヴェレカー・ゴート中将の指揮のもと、4個師団でフランスに上陸した。ゴートは「フランスには自力で防衛する能力がない」と確信して(そしてこの見立ては正しかった)、派遣軍の創設を熱心に主張してきた人物だった。BEFはベルギーに進出し、1940年5月には13個師団の増援を受けた。しかし同月19日には「もはや為す術なし」と判断され、24日には南からの反攻計画が放棄され、26日についに撤退が開始された。
27日の夜、レオポルド3世国王がベルギーの降伏を宣言し、国土をドイツ国防軍に明け渡した後、英軍の大部分はリス川沿いへの集結に成功した。リス川はフランス北部のリスブール近郊に源を発し、全長195キロメートル(うち24.6キロメートルが仏ベル両国の国境)を流れてベルギーのヘントでスヘルデ川に合流する河川である。ただし、この地で共闘できたのはフランス第3軍団のみで、同じ方面で戦っていた残る2個軍団はリールに取り残されてしまった。

包囲網の中の第4軍団と第5軍団
取り残されたのは、第4軍団(アイム将軍)と第5軍団(アルトマイヤー将軍)である。両軍団は最上位の階級を持つジャン=バティスト・モリニエ将軍の指揮下に入り、ルネ・プリウー将軍率いるフランス第1軍の一角を成していた。兵員の多くはアルジェリア、チュニジア、モロコノ各保護領出身の現地兵で、後に「ピエ・ノワール」と呼ばれることになる北アフリカ在住のヨーロッパ系住民も含まれていた。彼らはドイツ軍の猛攻を受けてリールに立てこもり、間もなくクルト・ウェーガー指揮下の装甲師団3個(第4、第5、第7)と歩兵師団4個(第11、第217、第253、第267)による包囲を受けた。
戦力差は歴然としていた。守備側はフランス兵約3万人とイギリス兵約5,000人を数えるのみで、十分な装甲部隊も持たず、長期にわたる抵抗など夢物語に思えた。実際、包囲突破の試みは二度行われた。最初は28日朝で、これは二正面からの同時突撃だった。ピエール・ダーム少将率いる第2北アフリカ歩兵師団(2e DINA、アルジェリア人狙撃兵と砲兵で編成)がデュール川の渡河を試み、一方オーギュスタン・アリアニー師団将軍率いる第5北アフリカ歩兵師団(5e DINA、モロッコ人とチュニジア人で編成)は「ムーラン・ルージュ」橋の突破を図ったのである。両者の試みは失敗に終わったが、その過程で多くのドイツ兵を捕虜とし、その中にはフリッツ・キューン将軍も含まれていた。
29日には二度目の試みが行われたが、これも不成功に終わった。2個中隊と若干の戦車は橋を渡り切ったものの、ドイツ軍の激しい弾幕の前に退却を余儀なくされたのだ。ここに至ってモリニエは突出を断念し、市内での徹底防衛に備えることを決めた。戦闘は主にリール郊外で展開され、フランス軍はドイツ軍に一軒一軒の家を奪わせる粘りを見せた。しかし、攻撃側の圧倒的な優位と、即席で構築された陣地ゆえの食糧・弾薬不足、さらには一般市民まで戦火に巻き込まれている状況を考慮し、降伏交渉に応じることになった。
4日間がもたらしたもの
5月31日夜、戦闘は終息した。翌朝、ウェーガーは降伏した部隊への敬意の証として、フランス兵が自軍の将兵の前で武器を手に隊列を組んで行進することを許した(この振る舞いのせいで、彼は激怒したヒトラーによって解任されることになる)。フランス軍は4日間持ちこたえたのだ。一見すると大した時間ではないかもしれない。だが、この4日間の間にドイツ地上師団の関心はダンケルクの浜辺から逸らされ、同地への圧力は空軍(ルフトヴァッフェ)だけが担うことになった。おかげでゴートは撤退を掩護する防御線を組織する時間を得た。グデーリアンが作戦を再開できた頃には、彼の前に障壁が立ちはだかり、地形も戦車の運用に適していなかったのである。
その結果、6月4日に完了したダイナモ作戦は、少なくとも22万4,000人のイギリス兵と9万5,000人の連合軍兵士をこの絶体絶命の窮地から救い出すことに成功した。もっとも、数万台に及ぶ車両や火砲、50万トンの物資は放棄せざるを得ず、約6万8,000人の犠牲者も残された。それでも、もし事態がもう少し違っていれば、軍事史上類を見ない大惨事になっていた可能性がある。そうならなかったのは、ひとえにリール包囲戦で身を挺して戦った守備隊たちの献身があったからなのである。