古代の歴史

ブラジル帝国の議会主義――皇帝ペドロ2世と閣僚評議会の時代

議会主義の始まり

1847年、皇帝ペドロ2世(D.ペドロ2世)によって閣僚評議会議長の職が創設され、これによりブラジルにおける議会制(議会主義体制)が正式に幕を開けました。

立法府の優位性

この議会制においては、立法権が最も強力な権限を有していました。行政権すらも上回る存在であり、法律の制定だけでなく、行政部門の活動に対する監督もその重要な役割でした。

皇帝の「調停権」

とはいえ、ブラジルに議会主義が導入された後も、最終的な決定権は皇帝の手に残されていました。憲法の規定により、皇帝は「調停権(モデラトール権)」を保持していたためです。

首相の選出プロセス

閣僚評議会議長(首相とも呼ばれる)は、皇帝自身が選任する仕組みでした。皇帝は行政権を担う人物を指名し、通常は下院で最大勢力を占める政党に属する人物が選ばれました。首相はまず内閣の一員として組閣を行い、その後、その人事案は議会に諮られ、賛否投票による承認を受けるという流れでした。

自由党と保守党の交互政権

この議会制は1889年まで続きました。その在位期間中、自由主義派や保守主義派の思想を掲げる複数の内閣が次々と成立し、与党の座は政党間で交互に入れ替わっていきました。

「融和内閣」とその功績

特に特筆すべきは、1853年に組閣された内閣です。この内閣は党派間の対立を緩和することを目的として結成されたもので、オノリオ・エルメート・カルネイロ・レオン(後のパラナ子爵)が率い、自由党員と保守党員の双方によって構成され、「融和内閣(調停内閣)」と称されました。同内閣は1858年まで政権を担当しました。

この時期には、鉄道建設をはじめとする大規模事業、蒸気船航路の開設、銀行の設立、さらにはリオデジャネイロ市におけるガス灯による街路照明など、数多くのインフラ整備が推進されました。

融和の終焉と党派闘争の再燃

しかし、この融和内閣の崩壊後、再び党派間の対立と政治的な抗争が激化していくこととなりました。