
ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)でナポレオン・ボナパルトを打ち破った君主国連合は、この名将が権力の座へ駆け上がるきっかけとなった自由主義的な理念を、二度と蘇らないよう完全に葬り去ろうと考えました。敗北だけでは飽き足らず、王党派の勢力はフランス皇帝をエルバ島へ隔離するという措置を講じました。
一見過剰に思われたこの警戒策でしたが、ナポレオンが島を脱出して帰還し、いわゆる「百日天下」と呼ばれる短期間で再びフランスの権力を握ったことで、その懸念は現実のものとなりました。
セントヘレナ島への幽閉――殉教者にしないための選択
権力奪還を目指したナポレオン・ボナパルトは、ワーテルローの戦いで再び敗北します。今回は同じ過ちを繰り返さないため、彼を打ち倒した勢力は南大西洋に浮かぶ遠隔の孤島セントヘレナ島への隔離を選びました。
当時の最大の懸念は、ナポレオンという存在を殺すことなく無力化することでした。剣による死は、かつての皇帝を自由主義思想の殉教者に仕立て上げてしまう恐れがあったからです。こうして1821年5月、ナポレオンは島での6年間の幽閉生活の末、当時あまり解明されていなかった胃の疾患により51歳でこの世を去りました。
死因をめぐる論争――がんか、毒殺か
時が経つにつれ、この政治家は何らかのがんに罹患していたのだとする見方が広まりました。一方で、ナポレオンの死はヨーロッパの伝統的な王権にとって不安定な種を葬り去ることになったため、毒殺の可能性を唱える声も根強く残りました。
毛髪から検出されたヒ素
20世紀後半に近づくにつれ、科学者たちは伝説的なフランス人の死因を解明しようと関心を寄せるようになりました。1960年代には、イギリスの科学者グループがナポレオンの毛髪を分析し、体内にヒ素が含まれていたことを検出しました。ヒ素は当時ごく一般的な毒物だったため、多くの人々はナポレオンの敵が有毒物質の摂取による死を企てた陰謀だと結論づけました。
しかしその後、いくつかの研究によって毒殺説には疑問が呈されました。当時の医薬品には同じ成分が配合されているものが少なくなく、また当時の壁紙などにもヒ素系顔料が使われていた可能性があるためです。
「小伍長」の衣服が証明したもの
より近年になると、「小伍長(ル・プチ・カポラル)」の愛称で親しまれたナポレオンの衣服の研究によって、がん説が裏付けられました。晩年の服のサイズから、胃腫瘍が長期にわたって食欲を減退させ、その結果として深刻な体重減少をもたらしていたことが判明したのです。
真犯人は「食生活」だった?
それでもこの説明に納得しなかったテキサス大学の研究者グループは、ボナパルトの命を奪ったがんの原因解明に乗り出しました。おそらく潰瘍から発生したとみられるこのがんについて、米国の研究チームは、ナポレオン政権が戦争に明け暮れていた時代にフランス軍へ支給されていた兵糧を日常的に摂取していたことが発症につながったと結論づけました。
戦場で支給される食事は一般に肉や塩を使って保存された食品が中心で、高カロリーな食生活を中和する野菜や果物が添えられることはほとんどありませんでした。ナポレオンがこのような食生活に長期間さらされていたと想定した科学者たちは、その食習慣こそが、この歴史上の人物を死に至らしめた最大の「毒」であったと結論づけたのです。