古代の歴史

働くコミューン――パリ・コミューンが実践した70日間の社会改革

パリ・コミューンの組織──10の委員会と代表(ドレゲ)

3月29日の時点で、コミューン評議会は内部に10の委員会を設置していた。すなわち、執行委員会、軍事委員会、食糧委員会、財政委員会、司法委員会、一般保安委員会、労働委員会、工業・交易委員会、公共事業委員会、教育委員会である。4月21日には、執行委員会のメンバーを他の9つの委員会それぞれに「代表(ドレゲ)」として派遣し、その業務を指揮させることが決定された。

ギュスターヴ・クリュズレーが戦争代表に就任し(5月1日にルイ・ロッセルが後任となり、さらに5月10日にはシャルル・ドレクルーズが引き継いだ)、オーギュスト・ヴィアールが食糧代表、エドゥアール・ヴァイヤンが教育担当、ラウル・リゴーが一般保安代表(4月24日にフレデリック・クルネが、続いて5月13日にテオフィル・フェレが後任)、レオ・フランケルが労働・工業・商業代表、ジュール・アンドリューが公共事業代表となった。一方、4月28日に創設された公安委員会は、権限が明確に定められないまま各委員会の職務に介入して混乱を招き、これが5月10日の戦争代表ロッセル辞任の一因となった。

70日間に及ぶ立法活動

コミューンは5月20日までパリを統治した。その立法活動は極めて多岐にわたり、存続した約70日間に数多くの施策が打ち出され、実行に移された。それらの大半はコミューン崩壊後に廃止されたものの、当時としては先駆的な措置も少なくなく、共和制フランスが実際に採用するまでには数十年を要したものもあった。

蜂起の発端となった問題への対応

コミューン評議会はまず、3月18日の蜂起の直接の原因となった問題から着手した。3月29日には、1870年10月以降に未払いとなっていた家賃の支払いを猶予する法令が出され、質屋(モン・ド・ピエテ)に預けられた物品の売却も停止された。4月12日には分割払い未納に関する訴訟手続きが停止され、4月16日には債務と分割払いの清算に3年間の猶予期間が与えられた。さらに5月6日には、モン・ド・ピエテに預け入れられた6フラン未満の質入れ物品について、無償での引き出しが認められた。

相互扶助の仕組みも整備された。戦闘で戦死した国民衛兵について、負傷者、未亡人(600フラン)、孤児(365フラン)に対する年金の支給が決められ(4月8日・10日)、4月25日にはドイツ軍およびヴェルサイユ軍の砲撃による被害者のために空き家を接収する法令が出された。また、パリ市民家庭からの物資提供の協力を得て、孤児院が設立された。

食糧供給の確保

食糧問題は、冬のプロイセン軍による包囲時ほど深刻ではなかった。パン以外の食料品は、包囲後に蓄積されていた備蓄や、城壁とドイツ軍陣地の間に広がる農地・菜園からの搬入によって、比較的十分に確保できていた。しかしティエール政府は4月21日の通達によって首都への鉄道封鎖を課した。そこでジャガイモの公売や市営肉屋の設置(4月22日)が行われ、当時の家計(その大部分を食料費が占めていた)の負担軽減が図られた。加えて市営食堂の運営や「ヴァルランのマルミット」と呼ばれる炊き出しなどの配食活動が展開され、パン引換券も配布された。

象徴的な措置

コミューンはいくつかの象徴的措置も打ち出した。3月28日に赤旗を採用し、共和暦(共和国79年)が再び施行された。帝政の専制の象徴とみなされたヴァンドーム柱の撤去は4月12日に決議され、5月16日に実行された。さらにティエールの財産没収と、彼のパリの邸宅の破壊も決定された(のちにティエールは100万フランを超える賠償金を受け取ることになる)。

報道の自由と検閲

報道の自由は3月19日、国民衛兵中央委員会によって改めて確認された。そのため反コミューン派の新聞は引き続きパリで発行され、蜂起への激しい攻撃を行い、ティエールの政治スローガンを流布し続けた。しかし4月5日からは、ヴェルサイユ寄りとみなされた『ジュルナル・デ・デバ』と『ラ・リベルテ』が発禁処分となり、12日には『ル・モニトゥール・ユニヴェルセル』も同じ扱いを受けた。ヴェルサイユ支持系の報道が攻撃を続けたため、4月9日には一般保安委員会が「事前届け出」制度が依然有効であることを再確認した。4月18日以降、コミューンは「敵軍の利益に有利な」新聞に対して発禁処分を示唆したが、それでも発行は続いた。取り締まりが本格化するのは特に5月で、5月5日に7紙、11日にさらに5紙、5月18日には9紙が廃刊に追い込まれた。一方、コミューン支持のパリの新聞が地方で流通することは、ティエール政府の厳重な監視のためほぼ不可能だった。

公務員制度改革

コミューンは公務員の大量欠勤にも直面した。彼らの多くはアドルフ・ティエールとともにヴェルサイユへ逃れるか、あるいは彼の指示で自宅にとどまっていたからである。第二帝政下で採用された公務員の意識改革も大きな課題だった。コミューンは公務員(司法・教育部門を含む)の普通選挙による選出を決め、最高給与を年6000フラン(熟練労働者の賃金相当額)と定め(4月2日)、兼業の禁止も決めた(5月4日)。公務員はもはや政治的・職業的な忠誠宣誓を求められなくなった。

労働者の境遇改善

民衆運動から生まれたコミューン評議会は、労働者階級の境遇改善にも力を注いだ。4月20日にはパン焼き窯での夜間労働が禁止されたが、その裏で行われる隠れた夜間稼働への対策として、商品の押収や店舗への制裁の掲示といった措置も講じられた。4月16日の法令は、所有者(脱走者になぞらえられた)に放棄された工場を接収し、補償を支払ったうえで労働者協同組合に引き渡すことを定めた。この結果、武器製造のために2つの作業場が操業を始めた(労働時間は10時間、経営陣は従業員による選挙で選出)。また、雇用主の間に広く見られた慣行に対抗して、公私の企業における罰金や賃金からの控除が禁止され(4月28日)、公共工事の入札における賃金切り下げ競争に対しては最低賃金を明記した仕様書が導入された。帝政下で隆盛を極め、「奴隷商人」とも呼ばれた民間の職業紹介所は廃止され、市営の紹介所に置き換えられた(4月20日)。

司法と婚姻制度

法律専門職の大多数が消えていたため、すべてのポストを埋める必要があった(パリに残る開業公証人はわずか2名)。多くの構想が生まれたものの、時間不足のため実現したのはごく一部だった。準正された子どもは法的に承認された子とみなされるようになり、合意による自由結婚(女性は16歳、男性は18歳)が認められ、公証文書(贈与、遺言、婚姻契約)の手数料は無料化された。さらにリゴーの抑圧的な捜査活動を抑制するため、一種の人身保護制度も導入された。すなわち、国民衛兵中央委員会または保安当局に逮捕された容疑者については直ちに事件調査が行われること(4月8日)、令状のない捜索・差し押さえの禁止(4月14日)、逮捕理由を囚人台帳に記載することの義務づけ(4月18日)、そして監獄監察局の設置(4月23日)である。

教育の世俗化と改革

教育分野では、中央行政機関の職員がヴェルサイユへ退避し、1850年のファロー法に後押しされて多数を占めていた修道会系私立学校は、4月2日の「政教分離」法令以降、初等教育に就学する約16万人の子どものうち半数以上を失って空になっていた。コミューンに必ずしも好意的でなかった中等・高等教育の教員たちも、リセや大学を放棄していった。この部門を担当したエドゥアール・ヴァイヤンは、初等教育と職業教育を一本化する改革を構想した。男女それぞれの職業学校2校が開校された。教育は世俗化され、宗教教育は禁止され、教室からキリスト教の宗教標章が取り除かれた。5月21日には、女子教育を検討するために女性のみで構成される委員会が設置された。初等教育の財政責任を担っていた一部の区、とりわけ第20区は、学校教育を無料化・世俗化した。なお、区から給与を受ける教員には、助教員に年1500フラン、校長に2000フランが支払われ、男女同一待遇とされた点も特筆される。

政教分離とカトリック教会

宗教の分野において、コミューンはカトリックを「フランス人の大多数の宗教」と位置づけ、司祭や司教を公務員扱いとしてきた1802年の政教条約(コンコルダート)との決別を図った。帝政末期のパリの労働者階級は、帝政や保守勢力と密接に結びついていたカトリックに強い敵意を抱いており、反聖職主義は、徹底した無神論を掲げるブランキスト派の宣伝活動や、イタリア統一問題における教皇ピウス9世の姿勢によって、いっそう強まっていた。

4月2日、コミューンはカトリック教会と国家の分離、宗教予算の廃止、修道会財産の世俗化を法令として打ち出した。ピクピュス、ダム・ブランシュ、アルクイユの各修道院の修道士たちは、さまざまな口実で妨害されたり逮捕されたりした。サン・ローラン教会とノートルダム・デ・ヴィクトワール教会は家宅捜索を受けた。パリ大司教ジョルジュ・ダルボワは4月2日に人質として逮捕され、ティエール政府に拘束されているオーギュスト・ブランキとの交換要求は、4月12日および5月14日の二度にわたりアドルフ・ティエールによって拒否された。