古代の歴史

少女たちにも教育を――ジュール・フェリーが築いたフランス女子教育の礎

19世紀後半のフランス、第三共和政の礎を築いた教育大臣ジュール・フェリー。その名は無償・義務・世俗の三原則を掲げた「フェリー法」で広く知られていますが、彼の功績はそれだけにとどまりません。本記事では、歴史家たちがフェリーに帰する三大業績を追いながら、とりわけ女子中等教育の創設に込められた理念を掘り下げます。

第一の功績:古典教育の文法改革

フェリーはまず、古典教育の文法体系を改革し、ラテン語による弁論形式を廃止しました。彼はこう述べています。「かつて我々はラテン語を『書くために』学んだ。今や我々はラテン語を『読むために』学ぶのだ」。文法教育で失われるものは、「文学への愛」によって取り戻されるだろう――これが彼の確信でした。

第二の功績:特殊教育(現代科)の再編

次にフェリーは、デュリュイが創設したラテン語を用いない「特殊教育」を再編しました。ここではラテン語に代わり、生きた言語が採用されています。バランス感覚に優れた改革者であったフェリーは、古典教育の持つ教育的価値を誰よりも理解しながらも、それを貶めることなく、後に「現代教育」と呼ばれる分野への道を開いたのです。

第三の功績:女子中等教育の創設

そして最大の業績が、1880年12月21日の法律による女子公立中等教育の創設です。これは、司教デュパンルーの激しい反対に遭い、着手しきれなかったデュリュイの構想を、大規模に復活・実現させたものでした。

当時、女性の魂はフランスにおける教会最大の「財産」とみなされていました。ならば男性と同じく、女性の魂もまた国家の管理下に置かれるべきではないのか。女性の精神にもまた、実証的な教育の恩恵を受ける権利があるのではないか――これこそがフェリーの問いかけでした。

少女たちにも教育を――ジュール・フェリーが築いたフランス女子教育の礎

「博識な女や不信心な女ではなく、推論できる女を」

フェリーはこう述べています。「我々は学識ある女性や、不信仰な女性を作りたいのではない。……そうではなく、推論することのできる女性を作りたいのだ。科学的方法による推論の習慣が、従来以上に女性の教育へと浸透することを我々は望んでいる」。

女子校の仕組みと「道徳」をめぐる攻防

こうして女子のためのリセ(高等中学校)とコレージュ(中等学校)が相次いで設立され、通学制に加え、必要に応じて寄宿制も併設されました。宗教教育は定められた時間に司祭によって行われる一方、特定の宗派から独立した「道徳」は教員が担当することになりました。

これに右派が反発すると、フェリーは痛烈に反論しました。
「大学への公然たる侮辱をやめるがいい。お前たちは数学も博物学も国史も教えられるくせに、道徳だけは教えられない、と言うつもりなのか」。

セーヴル高等師範学校の創設

さらにフェリーは、男子中等教育の幹部を養成する高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリウール)があるように、女子中等教育の幹部を養成する機関も必要だと考えました。それがセーヴルに設立された女子高等師範学校です。

大学改革とその遺産

フェリー自身は、1896年7月10日の法律により、同一都市の学部群を統合して予算自治権を持つ地域大学を創設するという大改革の端緒を開いたにとどまりました。しかしその一方で、彼は数多くの大学建築物の建設・改修・増築・再生に手腕を発揮しています。また講座教授の数も、「嘲笑されるほどに」削減されていた625から1200へと倍増させました。

こうして完成され、後継者たちによって発展されたフェリーの学校事業こそ、第三共和政に現代の諸体制の中での本質的な相貌を与えたものといえます。

世界の目と国内の対立

この教育制度は、共和政フランスに対する世界世論の、主たる賛美と非難の両方の理由となりました。その評価は、世論の属する哲学的立場と、そこで教会が持つ影響力の大小によって分かれたのです。

フランス国内では、カトリック右派の怒り、すなわち「反キリスト」への、歴史家バンヴィルの言う「冷徹な容貌のディオクレティアヌス」への苦い憎悪が、フェリーの植民地・帝国事業に反対する急進派との連携へと彼らを大きく駆り立てました。そして1885年3月30日、劇的な議会の一日において、右派はランソンにおける軍事敗北とされた報告を口実に、猛攻を仕掛けるクレマンソーに加勢し、「トンキンのフェリー」を倒閣へと追い込んだのです。