古代の歴史

ナポレオン3世の植民地政策:帝国の栄光を求めた植民地化とアルジェリア統治の失敗

計画よりも象徴として始まった植民地政策

ナポレオン3世率いる第二帝政の植民地政策は、綿密に練り上げられた長期計画に基づくものではなかった。植民地化はまだその端緒についたばかりであり、試行的な段階にとどまっていた。しかしその一方で、植民地拡張はすでに帝国の栄光を内外に誇示するための重要な手段として機能しつつあった。

海軍の近代化と植民地帝国の三倍拡大

フランス海軍の近代化と植民地帝国の規模三倍への拡大を主導したのは、ナポレオン3世と海軍大臣シャスルー=ロバ(Chasseloup-Laubat)である。
1853年には南太平洋のニューカレドニアが、1862年にはアフリカのガボン沿岸がそれぞれフランスに併合された。マダガスカルも商業的な支配下に置かれている。
アジアにおいても展開は続いた。1858年6月、フランスとイギリスは中国から新たな貿易港を獲得し、1860年10月には北京にまで侵攻した。さらに1863年にはベトナム中部のアンナンがフエ条約により服属し、カンボジアもフランスの保護国となった。

植民地帝国の再編と自由化

1854年5月には植民地委員会が設立され、旧植民地と新植民地を区別する形で植民地帝国全体の再編が進められた。また、従来の排他的な専売体制の終焉により、植民地市場は他国に対しても開放されることとなった。

アルジェリアの平定と統治改革の挫折

北アフリカのアルジェリアでは、1857年にカビリー山地におけるフランス軍の決定的な勝利によって、征服と平定が完了した。
ナポレオン3世は、アルジェリア・植民地省を通じて現地の諸部族を植民地体制に融合させようと試みた。1860年4月には部族に対して土地の所有権を返還し、1865年7月には市民権を自由に選択できる権利を与えたのである。
しかしながら、現地を保護領と位置づける「アラブ王国」構想は、総督マクマホン、軍部、そしてヨーロッパ系入植者たちの強い反対によって拒否された。さらに1868年には深刻な飢饉が発生し、50万人ものアルジェリア人が命を落とした。これら一連の政策の行き詰まりは、ナポレオン3世にとって大きな失敗となったのである。