ロシア詩の夜明け――デルジャーヴィンと頌歌の時代
ロシア詩の伝統は18世紀前半に本格的に花開きました。なかでも中心的存在となったのが、頌歌『フェリーツァ』(1782年)や『神』(1784年)で名高いガヴリール・デルジャーヴィン(1743–1816)です。当時のロシア詩を支配していたのは抑揚格(ヤンブ)と呼ばれる韻律で、規則正しい強弱の繰り返しが詩に独特の音楽性を与えていました。
「時の言葉よ、金属の響きよ!
その恐ろしい声に、私は身震いする。
そのうめきは私を呼び、呼び続け、
呼んで――墓場へと私を引き寄せる。」[1]
黄金時代のロマン主義――レールモントフ
しかし、ロマン主義最大の詩人と目される人物は、その後に登場します。1814年生まれのミハイル・レールモントフ(1814–1841)は、まさにロシア文学の「黄金時代」に生きながら、「世紀病」に蝕まれた詩人でもありました。彼は詩作において徹底した内省へと向かい、ルソーのように自らの生涯を作品に映し込む自伝的な手法へと踏み込んでいきます。
黄金時代のロシアは、ヨーロッパの詩から強い影響を受けていました。フランスのボードレールと同じように、「見えないものを見て、それを描き出せる唯一の存在」としての詩人が、群衆から迫害されるというイメージもまた共有されていました。レールモントフの詩『預言者』(1841年)は、こうした信念を見事に体現した一篇です。
「あらゆる民族のもとで、詩人の運命は苦い。
されどロシアでは、その運命はいっそう過酷である。
栄光のためにリレーエフは生まれたのに、
若者は自由を愛していた……」[2]
抒情的な「私」と詩人の解放
19世紀初頭のロマン主義は、それまでの詩の常識を打ち破る革新的な潮流でした。読者は詩句のなかで、作者自身の感情の高揚に直接触れることができるようになったのです。たとえば抒情的な「私」の使用は、当初国家に雇われる立場にあった詩人たちが、「呪われた詩人」という宿命を負いながらも、自らの筆によって生きていきたいと願う解放の象徴だったといえます。
「さらば、洗われざるロシアよ、
奴隷の国、主人の国よ。
さらば、青い制服の諸君、
そして汝ら、彼らに従う民よ。」[3]
銀の時代への架け橋――ネクラーソフと民衆の声
19世紀後半には小説の隆盛が詩を陰に覆いましたが、1890年頃になると詩は再び表舞台へと戻り、およそ20年に及ぶ繁栄期を迎えます。これがいわゆる「銀の時代」です。口語的な韻文と詩が結びつき、表現は次第に散文的手法へと傾斜していきました。小説の発展がリアリズムの確立をもたらす一方で、ロマン主義の詩は新世紀の潮流に道を譲り、同時にこの国の偉大さと矛盾の両方を映し出す鏡となったのです。
ニコライ・ネクラーソフ(1821–1878)は1840年代初頭から、農民たちの不幸を詩句のなかに織り込み、ロシア民衆の失望と悲嘆を語り始めました。もちろん、そこには文学的な美意識が不可欠な装いとして添えられていたのです。
「聞こえるか、あのうめきが
大いなるロシアの川ヴォルガの上に響くのが。
あれは曳船人たちのうめき、
私たちは彼らの嘆きを歌と呼ぶ。(……)
いつ立ち上がるのか、いつになったら?
苦しみに満ちた平野よ。
それとも従順な運命のままに、
この悲しい歌を歌い終えたなら、
自らの大地で眠りにつくのだろうか。」[4]